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【東京五輪総括シリーズ①】 東京五輪はもっと早く無観客開催を決定すべきだった -選手のことを考えたら開催、コロナ対策を重視したら中止という狭間の解決-21.8.23

 205の国と地域が参加した二度目の東京五輪は新型コロナウイルスの影響で初めて1年延期されたが、8月8日に17日間の競技を終えて、閉会式が行われた。8月24日には、パラリンピックが開幕する。遅ればせながら、私なりに東京五輪を紛糾してみる。


<最初からきな臭い生臭い嘘の五輪、それでも無事に終えたのは「現場力」の賜物>
 東京五輪への安倍前首相のこだわりは尋常ではなかった。リオ五輪の閉会式会場にスーパーマリオに扮して登場した。国の関係ではなく、主役は小池東京都知事のはずなのに、明らかなルール違反である。スポーツの祭典であり、政治は控えなくてはならないのに、これ以降は政治主導が続いた。
 ところが、日本の必要以上の肩入れにも関わらず、東京五輪は「コロナに祟られた」五輪とでも呼べるほどケチがついた五輪だった。まずは、今もフランス法廷で続く東京招致を巡る不正疑惑である。その後は国立競技場の設計に始まり、開会式演出者の過去の行状による解任とトラブル続きであった。
 しかし、始まってみると、さすが日本ならではの細かい配慮で、毎日のPCR検査と、バブル環境で大過なくとやり遂げた。コロナの初期に数十人のウィーン・フィルハーモニーが4日おきのPCR検査、空港からはチャーターバスでホテル直行、貸し切りで会場までの往復をすることにより演奏を続けていたのを私も知っていたが、それを1万人の選手規模でやってのけたのである。競技自体が大過なく終えられたのは見事というしかない。これは日本の現場の人達の能力・気遣いの賜物であり、世界からは後々も評価されることになるだろう。

<コロナ戦争中にスポーツどころではないという中止論の正当性>
 コロナ禍の中で五輪をどうするか国論を二分したが、政府は国民の7割以上が中止・再延期を望む中、強行した。私もどうすべきか日本国民の一人としてあれこれ考えをめぐらした。あっさりと中止すべきという考えにもひかれた。
 なぜなら、日本のみならず、世界中が混乱しており、新型コロナウイルスの蔓延を除くには「人流」を断つのが一番手っ取り早いからだ。つまり、五輪選手といえども国境間を超えた往来は危険だということだ。
 5月、信濃毎日新聞(信毎)を皮切りに、朝日新聞まで五輪中止の記事を書いた。信毎は軍部と対立した桐生悠々の伝統が今も変わらぬことを示しており、私は思わず膝を叩いた。性懲りもなく一旦流れができたら止められない癖は第二次世界大戦も東京五輪も同じなのかもしれない。
 世界の首脳クラスはコロナへの対応を戦争に例えた者も多くいた。世界中が闘っている時に競技場でスポーツどころではないという正論である。1980年には、ソ連のアフガン侵攻に対して抗議する意味からも、日本を含む西側諸国はモスクワ五輪をボイコットした。今回、コロナ戦争とアフガン戦争を並列にした論はお目にかかれなかったが、私は同じことだと考えていた。


<伊達治一郎(モントリオール五輪レスリング金メダリスト)にみるスポーツ選手の鍛錬>
 通常は私の身近にメダリストなどいないが、1977年アメリカ留学中の夏、縁があってモントリオール(1976年)のレスリングの金メダリスト伊達治一郎と銅メダリスト菅原弥三郎を中西部の移動中に私の車で送ったことがある。2人は夏休みのレスリング教室の目玉ゲストとして各地を転々としていた。当時、次のモスクワ五輪を目指していた。3人で安モーテルに泊まった時も、伊達はベッドの上で柔軟体操をし、ぐっすり寝ている年下の菅原を叩き起こして朝のランニングもしていた。自分だけでなく、菅原に金メダルをと叱咤激励している姿が私には微笑ましく映った。英語は流暢に話すことはできなくともレスリング用語は英語であり、何よりも伊達の愛嬌あるキャラクターは子供達にも通じ、「ジィー」と呼ばれ、人気者だった。よく日本人の本番での弱さが指摘されるが、関係者の間では他はダメでも伊達だけは確実に金メダルだと言われていたという。モントリオールではそのとおり、7月の試合で6回フォール勝ちの絶対王者だった。しかも、74kg級という日本の苦手な中重量級での快挙だった。


<伊達と山下、高田の違い>
 一流のスポーツ選手の日頃の鍛錬振りを垣間見て感心した。ところが、目標だったモスクワ大会は政治に翻弄され、4年間の練習の成果を出す絶好の機会を失ってしまった。世界選手権4連覇を続けていたレスリングの高田裕司は連覇の希望を絶たれ涙を流して記者会見し、山下泰裕も控え目ながら、不満を述べていた。汗水流して必死でトレーニングを重ねてきた選手にしてみれば全身から力が抜けるほどのショックだろう。何よりもピークがあり、その時を逃すともうトップにはなれないことも多い。そうした中、伊達は「何も五輪のためだけにレスリングをしてきたわけじゃない。国がそう決断するなら仕方ない。」と動じることはなかった。その後、母校国士舘大学のコーチを務めるなど活躍していた。しかし、その気丈夫な伊達は1918年66歳で早逝して今はいない。私は東京五輪の中止で揺れ動く中、もし伊達が生きていたら何と言うか、いつも気になっていた。モスクワ五輪中止に異を唱えなかったのだから、多分日本人の命と生活を犠牲にする東京五輪は開催すべきでないとド正論を吐いたかもしれない。
(この件は、16年8月30日のブログ「オリンピックを政治の道具にするな」で既に書いている)


<五輪開催を政権浮揚策に使うもくろみがはずれる>
 世論は正直である。東京五輪は良かったという声が6割を上回った。その点では、開催反対者も競技が開催され、日本が金メダルを取れば盛り上がるという安直な思惑が一定程度当たったことになる。ただ、菅首相が望んでいたほどの熱気はなく、内閣支持率は好転することなく逆に30%前後にまで下がっている。国民は素直に日本の史上最多の金メダルに拍手を送ったが、それと同時にコロナ対策を二の次にする政府を支持することなく冷静に見ていたのである。「日本が活躍すればすぐ忘れる」という愚民政策には乗らなかったのだ。五輪は、より感染力の強いインド由来のデルタ株による新型コロナウイルスの第五波の猛威に屈したのである。


<もっと早く無観客開催を決定すべきだった>
 東京五輪は中止にしても開催にしても、もっと早く決断すべきだった。断行するなら、どのように開催するかを明確にし、それを国民に、選手に、世界にきちんと説明すべきだったが、それが欠けていた。
 選手のためには開催する必要があった。途中から他のスポーツイベント等への対応から学び、中止と開催の間をとった「無観客開催」というアイデアが生まれてきた。しかし、政府は密にならない有観客と欲張って決断を下さなかった。4月25日発令の東京の緊急事態宣言は、開会1ヶ月前の6月21日からまん延防止等重点措置に移行した。この時点でもまだ有観客に固執していたのである。42会場中、宮城、福島、静岡の3県を除く37会場が無観客となった。早く決まっていれば旅館業者も飲食店も混乱せずに済んだところを遅い決定のために迷惑を被っている。例えば、あるホテルでは大会組織委との契約でメディア関係者が泊まることになっていたが、誰が宿泊するかわからなくなり100人分の部屋と朝食を用意したが結局5人だけで振り回されるばかりだったと嘆いている。