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【歪んだ畜産シリーズ2】長野県の北信地方から消えた鶏、豚、牛 -日本の傾向とは逆に畜産が減少、果実・野菜に移行‐ 21.09.19

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日本農業全体は、前号のとおり米消費量の減少、食生活の洋風化という大きな流れに沿って畜産業重視に移る中、長野県は全く逆の方向に進んだ。

<家畜が消えた異様な農村になった北信地方>
50年前、農家には庭先で鶏がミミズやその辺の草をついばんでいた。農家の軒先には山羊になり綿羊なりが、1頭なり2頭なりの単位で飼われていた。農林水産省が農業の多角化で推奨したこともあり、水田酪農と称され乳牛を2~3頭飼う農家もたくさんいた。
ところが今、少なくとも長野県の第1区北信地方でこうした家畜をみることはほとんどなくなった。私の知る限りででは養豚農家がみゆきポークを売りにする飯山市にある。それからやはり飯山市の千曲川沿いに養鶏農家がある。それ以外ではほとんど見たことがない。

 10年ほど前になるが、廃校になった私の母校長丘小学校の通学区域の中で、なんと我が家が最後の鶏を飼っている農家であった。鶏を見させてほしいと小学校の先生が子供達を連れて、訪れて来たという。子どもたちは4本足の鶏や、乳牛の乳房を前脚に近いところに描くことがずっと前から指摘されていた。農村地帯でも鶏や牛を見られなくなったのだから仕方あるまい。

<数字で見るとよくわかる家畜の減少>
 長野県の畜産業の推移を別表4「長野県 品目別畜産戸数、頭数推移(1960~2020) 」でみるとその衰退振りがよくわかる。
 1960年と2020年を比べると、肉用牛の飼養戸数は46,750戸から375戸、乳用牛は32,630戸から288戸と数万戸から数百戸と10分の1に減っている。豚は21,710戸から69戸と3桁違いの300分の1に減っている。頭数も肉用牛は5万頭から2万頭、乳用牛も5万頭弱から1万5千頭と3分の1に減っており、豚もピークの1980年の26万頭から6万5千頭と3分の1に減っている。
 ところが、一戸当たりの飼養頭数は、せいぜい1~2頭だったのが肉用牛、乳用牛とも50頭を超え、豚に至っては936頭と激増している。

<普通に見られた庭先養鶏も忽然と消える>
 更に顕著な動きを示しているのが、採卵鶏であり、1960年には17万戸と長野県の全農家22万戸のうちの76%もの農家が、10羽ぐらいずつ飼っていた(表4)。いわゆる庭先養鶏である。ところが、1980年には1万戸強に激減し、2000年には60戸そして2019年には20戸と1万分の1に減った。つまり鶏は60年前はそこら中の農家に飼われていたのが、今は、人里離れた山奥で2万5000羽が大きな鶏舎で飼われており、普通の人々の目に触れることは少なくない。ただ、豚、鶏とも日本の平均規模の半分以下である。
 これは、乳牛に代わる農家の栄養源を提供していた山羊についても言える。夕上がり(農作業を終えて帰る)時に家畜用の草を刈ってリアカー(途中からガーデントラクター)に乗せて帰り、牛馬や山羊・めん羊にくれるのが日課だった。だから、長野県では1957年には山羊は5万8千戸、綿羊は5万6千戸と、約四分の一の農家が一頭ずつ飼育していた。つまり、あちこちの農家の納屋の隣に家畜がいたのである。そして農家の近くには、堆肥がうす高く積まれていた。それから30年後の1990年には、山羊が1,630戸、2,670頭、めん羊は450戸、3,240頭に激減し、2010年には両方とも200頭しか飼われなくなってしまった。

<野菜、果実が半分を占める特徴ある長野県農業>
 長野県農政部の統計によると、2020年の農業総生産額(産出額)は2926億円で、その内訳は野菜818億円、果実656億円、キノコ503億円、コメ444億円に次いで畜産が298億円となっている。野菜、果実で半分を占め、畜産は10%に過ぎない。日本全体と比べると野菜、果実の比重がかなり高く、畜産が著しく低いのが特徴である (表5「2020年の長野県農業産出額(県農政部統計)」)。近隣の農地の使われ方をみれば一目瞭然である。

<役牛は家族同様だった>
 我が家では1960年代初頭まで役牛としての牛が玄関と繋がる牛舎で家族同様に扱われていた。だから家の中に蝿が飛び回っていたし、臭いも別に気にならなかった。私の世代(1948年生まれ)は、牛の鼻緒を引っ張って「田かき」をした最後の世代だろう。
 牛は賢くて、私だと馬鹿にしていう通りに動かなくても、祖父が声を出すと従った。それが売られて行く時は、事情がわかるのだろう。外へ出るのを嫌がり暴れて鳴いた。切なくて私も奥の部屋で涙を流していた。
 収入源が米と蚕から果樹に変わるころ、その牛も用済みとなって消えていった。その結果、野積みされた堆肥の山は消え去り、北信地方の田畑にはここ数10年、堆肥がほとんど投入されていない。このまま続ければ、地力が衰えていくのは必至である。今や農村にいても、犬・猫等のペットを除けば動物園に行かなければ動物も鳥もみられないことになり、家畜と過ごすことによる情操教育もままならなくなっている。あまりの変貌に驚くばかりである。

<日本の供養の精神こそ動物の権利、福祉につながる>
 我々の祖先は耕すことに、そして荷車を引っ張ることに貢献した馬に感謝して馬頭観世音をあちこちに建てていたのである。野生動物は食べても身近な家畜の肉は食べなかった。つまり皆が供養の精神を持っており、他の生命に対して敬意を抱き「いただきます」と感謝して食べていた。
 仏教上の理由からも殺生を嫌い、もともと日本には肉食は普及しておらず、歴史的に日本こそ動物の権利や動物の福祉を普通に考えていた国だったと言える。それが戦後、特に最近の効率一点張りの風潮の中で家畜に対する愛情が消えていってしまった。今、世を挙げてSDGsの時代、そしてグリーン化が叫ばれている中で、動物の世界のグリーン化こそ遅れに遅れているのだ。

<OIEの勧告通りの鶏の飼い方をしていた1960年代>
 鶏には食事の残り物も餌にするし、なっ葉の捨てる部分もくれることになる。「にわとり小屋」があってもいつも昼間は放し飼いにする。堆肥の山に多くいるミミズをついばみ、草をむしって1日中動き回る。小屋には止まり木もあり、卵を産む巣箱もあった。1960年代はまさにOIEの勧告そのものの飼い方だった。
 夕方には行儀のいい鶏は自分で小屋に戻っていくが、いつまでもうろついている遊び人(鳥?)がいて、これを小屋の中に追い込むのが私の仕事だった。また、卵を単箱で産み落とさない鶏がいつも1~2羽いた。ところが、そこら中にデタラメに産むかというとそうではなく、納屋の稲わらの置いてある決まった場所に産んでいた。つまり自分の好みの場所があるのだ。だから何日かに1回はその鶏のアジトを探ることになる。

<卵は風邪をひいた時のみ、廃鶏は誕生祝いへ>
 卵は大切な現金収入源でもあり、一週間単位で集められ、主として祖母と母の貯金に回った。当時「たまご貯金」と呼ばれ、女性が自主的に使えるお金として生活改良普及員や農協が奨励していた。その自由になるお金で旅行に出掛けたりして、農村婦人の自立に役立っていた。私が卵焼きを食べられるのは運動会や遠足の日の弁当くらいだった。もう一つ、風邪をひいた時はネギ味噌に加え、栄養をつけなければならないということで生卵かけご飯にありつくことができた。
 そして、最後に廃鶏を絞め、その肉で鶏肉鍋かカレーで私の誕生祝いというのが定番だった。長男の私をことのほか可愛がる祖父が全ての工程をとりしきり、私はそれをずっと眺めて育った。跡継ぎの私には優しい祖父だったが、このご馳走は二人の弟の誕生日にはなかった。それなのに農業を継がず一番下の弟が継いでおり、祖父にも弟にもすまない気持ちでいっぱいである。