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2021年10月24日

選挙の様子

選挙の様子を動画にまとめました。
よろしければご覧ください。
しのはら孝 動画一覧ページ(YouTube)

コロナ対策は命を守る安全保障である -「検査と隔離」、「国内生産維持」、「研究開発投資」、「ワクチン安全保障」- 21.10.24

 選挙期間中で非常に忙しいが、時間が許す限り争点になっている事についての報告をさせていただくことにする。

<コロナ感染者数減少の理由がわからない!>
 今なぜかしら急速にコロナ感染者数が減っている。しかし有権者はコロナ対策に一番関心が高いと思われる。専門家も減少の理由についてはほとんどわかっていない。一般的に言われているのは、 ①ワクチン接種が進展したこと、 ②医療崩壊して自宅療養者が亡くなるという報道があったりして人々の移動・行動が抑制されていること、 ③医療施設や高齢者施設のクラスターが減少したこと、などがいろいろ挙げられるが、本当のところ確定的な原因はわかっていない。
 コロナ感染者数が減少した原因がわからないということは、今後第6波が訪れたときに、その理由がわからないということに通ずる。

<各党の対策に大差なし>
 各党がコロナ対策については同じようなことを言っている。
 まず自民党は、①入院の受け入れを二割増やす。 ②ワクチン接種は11月早期に完了し、3回目の接種も視野に入れる、 ③ワクチン接種証明をしてイベント・旅行・飲食を実施してもよい等である。③番目は後述するが、私が最初から主張していたことである。
 立憲民主党は ①水際対策をきちんとして全入国者を対象にホテルで10日以上隔離すること、 ②PCR検査をもっと多くしやっていくこと等を主張している。共産党も無料検査を主張している。各党にそれほど差は見られない。

<感染防止は「検査と隔離」が鉄則>
 2010年、農水副大臣の時、口蹄疫の蔓延を防ぎ収束するため・現地対策本部長として宮崎に2ヶ月滞在し、徹底した検査と隔離が重要だと痛感した。新型コロナウイルスも全く同じで、まず検査と隔離が重要だと思っている。例えば国営法の徹底も隔離の延長線上にある。
 この点について日本は非常に軟弱である。きちんとした法律を何も定めていない。ドイツではマスクを義務化する法律の制定に対してベルリンで大デモが行われ、逮捕者が何人も出ている。ところが、日本はすべて「要請」ですませ、きちんとした行動抑制をする法律を制定する気はない。政府は従順で真面目な国民気質にあぐらをかいて責任を果たしていない。

<検査パスポートが外出自粛・移動制限より安上がり>
 第5波では8月20日2万5,000人も感染者が出ていた。その後ワクチン接種も進んだが、ワクチンは万能ではない。いち早くワクチン接種を完了し、成功事例と言われていたイスラエルでは7月から再び増加が始まり、ワクチン接種効果が減っていることは明らかである。日本も一時的にワクチン接種効果があったとしても、数ヶ月経つと同じようになることは目に見えている。また、イギリスでは諸々の規制をほとんど解除した結果、今現在(10月21日)も感染者が5万1,484人に増えており、今後どうなっていくか分からない。イギリス政府は何の対策も講ずる気配がないが、医療関係者はマスク着用の義務化や在宅勤務などを求めている。数ヶ月後の日本の姿かもしれないのだ。だからコロナ収束など先の先のことである。
 コロナ対策として私は一に検査、二に検査だと思っている。つまりPCR検査あるいは抗原検査をし、それに加えてワクチン接種も行う。そしてこの3つの証明書でもって陰性が証明されたならば外出や移動を自由にするということである。検査費用がかかるだろうが、移動を自粛し旅行や飲食をするなと押しつけ、飲食店や観光業界に大打撃を与えるよりはよっぽどマシである。

<感染拡大防止も環境保全も規制以外に手立てはない>
 それには徹底した検査とともに、検査で陽性になった者は出歩かないこと、つまり隔離が必要である。小泉政権以来、規制緩和を言い続けてきているのに、やたら経済活動を押さえつけているのは大矛盾である。外出自粛など規制の最たるものではないか。今のような自粛・自粛も、どこに明確な基準があるのかわからず、いつまでも許されることではない。法律で基準をきちんと決めて抑制的に強制力を持って対応することが必要である。
 感染症の防止や、環境の保全は規制以外ではなりたたないということを自公政権はわかっていないのだ。前述の通りドイツでは21年から公共の場(公共交通機関や店舗)での医療マスクの着用を義務付けている。「法と秩序」とか格好のいいことを言いながら怠慢以外の何物でもない。

<専門家の遊軍を造る>
 その次に大事なことは、医療体制の拡充である。今回のような猛威を振るう感染症はめったに起こるものではない。だから専門家が少ないのは仕方がないことである。ただ、これからはいざというときに備えて専門家を育成し、通常はほかの専門の分野のことをやっていても本人の一番の専門は感染症対策だという医師を抱えることである。そうした医師にもきちんと高給を与えることである。つまり、いわゆる診療報酬の問題であるが、常日頃ない感染症の専門家などはあちこちの病院で抱え込むことができないから、政府が工夫を凝らし、いわば遊軍(いつでも出動できる者)のような専門家を用意しておく以外ない。

<長期的研究開発投資>
 それから日本は圧倒的に研究開発投資が遅れたことを反省しなければならない。未だもって日本でワクチンが出来上がっていない。先進国の中でこのような遅れをとっているのは珍しいことである。薬学部を6年にしたりと準備は整っていたはずなのに、長期的観点に立った研究投資を怠ってきたのである。今このままのケチな科学技術振興予算では、今後は日本からノーベル賞受賞者は輩出できないと散々言われているが、医療の分野でも同じことが起きていたのである。
 日本に必要なものは、食料が典型であるが、絶対に国内で維持するのだという決意が必要である。通常時は無駄があるかもしれない。安く外国から買えたらその方が簡単かもしれないが、今回のワクチンのように外国から持ってきたりすると供給が途絶えたり、いつ来るか分からなかったりして遅れをとることになる。効率一点張りで基礎的な分野への長期的投資を怠ってきたことが今回の結果を招いているのだ。

<軍事安全保障の前に「ワクチン安全保障」>
 それから最後に感染症病床の問題である。感染症病床は2000年には2,396床あったものが2019年は1,188床しかなくなっているという。感染症指定医療機関にも常勤医師の専門家の医者がいるのは35%ということである。つまりこういったウイルス性の感染症についての準備体制は全く整っていなかったのだ。これも猛省しなければならず、地域医療再編構想で公立・公的病院のベッド数を減らすなどということはもってのほかである。むしろこの反省に立ってベッド数に余裕があることは当然、と考え方を変えていかなければいけないのではないかと思っている。
 小泉政権以来医療費の削減ばかり叫ばれ、例えばその結果保健所がメタメタに減らされて対応が遅れることになった。国民の命に関わる分野では通常時の無駄はある程度やむを得ないのだ。自公政権は敵基地攻撃能力などと軍事安全保障にばかり向かっているが、ワクチンも食料ももっと先に整えなければならない安全保障なのだ。医療、教育、研究開発にはある程度の無駄が必要なのであり、それを承知の上で対策を講じていかなければならない。

2021年10月 3日

【歪んだ畜産シリーズ4】 まともな畜産業の復活は牛乳の地産地消・旬産旬消から始める -消費側から畜産の正常化を促す- 21.10.03

<地元の酪農家が新鮮な牛乳を小中学校の学校給食に届ける>
 畜産業のあまりの変容に嘆いてばかりいても始まらない。私は地産地消・旬産旬消が一番望まれる酪農を健全な姿に復活させるのも一つの考えではないかと思っている。
 つまり、学校給食や病院等の業務食に不可欠の牛乳を身近で生産し、近隣の学校給食、病院食に優先して新鮮な牛乳を届けることである。長い輸送によるCO2の排出も抑えられ、すぐ飲むもので冷熱費も少なくて済み、健康にもよい。一石何鳥にもなる。1960年農家戸数が606万戸もあったころは、水田酪農を各地で展開できただろうが、2020年175万戸と3分の1以下に減った今では同じ手法には無理がある(表 農家戸数の推移)農家戸数の推移.pdf。小・中学校を抱える市町村が前面に立って公的援助を行い、中規模の酪農家を育成して維持するしかない。これはかつて乳牛を飼った経験のある団塊の世代以上が生き残っている間にしないと手遅れになる。もちろん国が積極的に支援し、全国展開するのだ。
 子供たちが新鮮な牛乳にありつけるなら、学校給食が少々高くなっても保護者は許容するであろう。第一学校給食費が月5,000円前後、すなわち一食250円というのはあまりに安すぎる。一方ではカラオケに行き下手な(?)歌を歌って数千円も支払っているのに、日本の親も関係者もどこかおかしいのではないか。次世代を担う子供たちの食費にはもっとお金をかけてもバチは当たらない。

<有機農業推進の核になる>
 当然、余計な抗生物質の投与はなるべく避けるなど、有機酪農に向けていく必要がある。そして狭い牛舎で飼うのではなく、広々とした牧場でのびのびと草を喰むという飼育に徹し、子供たちにも度々乳搾りの現場や子牛の出産を見せて、情操教育に役立てることである。今北海道で広まっているやたらと乳量拡大を図る200頭を超える大規模な酪農(いわゆるメガファーム)は日本の目指すべき方向ではない。
 更に堆肥は近隣の野菜農家に分けて使ってもらい、有機農業を給食用食材として推奨してもらうことである。まさに地域循環であり、SDGsの見本となる。美味しい卵、元気な豚の肉と良い連鎖反応を起こしていくしかない。
 私は約40年前の1980年代から異端児扱いされながら有機農業を唱道してきた。農政の本流は我々が政権を担った時もほとんど無視し続けてきた。それを政府は突如100万haの有機農業とか言い出した。それには有畜複合農業が手っ取り早い近道である。アキタフーズ事件の真の原因を見極めるとともに、有機農業への転換の一環として畜産業を正常な姿に戻していくことにも真剣に取り組んでいかなければならない。

<欧米で増え続けるベジタリアン、ビーガン>
 畜産業が変わるには、その背景にある日本人の食生活スタイルも変えてもらわないとならない。いや、もっと言えば消費者側でいかがわしい畜産物を拒否して、流れを変えるのである。
 日本はカレー・トンカツ・スキヤキ等外国の料理をうまく取り入れて、日本型食生活をより豊かなものにしてきた。そうした工夫とおもてなしの精神の究極の成果ともいうべき東京五輪の選手村食堂は、700種類の献立を揃え大好評だったという。
 ところが、欧米では2000年代以降急激に増えているベジタリアン、ビーガンが日本ではほとんど見られない。菜食主義者(ベジタリアン)は2000年代当初はアメリカでも僅か1%ぐらいだったが、2017年には2.5%の2,500万人に増え、特に若者の間に浸透している。EU諸国では、ドイツ・イタリアは10%に達し、オーストラリアもオージービーフの国なのに11%、スイスは14%に達している。

<なぜ菜食主義者が増えるのか>
 世界には忌避する食べ物があり、各民族が独特の風習を持っている。文化人類学者マービン・ハリスの『食と文化の謎』(1988)を読み、目から鱗だった。ヒンズー教は牛肉を食べず、イスラム教は豚を忌避していることは良く知られているが、他の忌避を紹介するとともにその理由を大胆に説いてくれた。それをもじれば、肉食文化の国で、肉のみならず、牛乳、卵、ハチミツまでも忌避する人(ビーガン)が急激に増えているのだ。
 それは一体なぜなのか。一つには、極めて合理的実利的理由、つまり健康上の理由がある。肥満気味の人が多く、死因の第一位が心臓病であり、肉食は過ぎると高血圧、高脂血症に直結するからだ。

<環境への配慮が食べ方を変えている>
 次に多くの人が「食と環境」の関係を考えて、肉食を止め始めているのである。誰にもわかることで言えば、家畜の糞尿過多は土壌を劣化させる。それどころかオランダの過密飼育をする地域では糞尿の臭いが都市部にまで広まってしまっている。だからEUではとうの昔から1頭の牛の糞尿を処理するには○㏊の農地が必要という基準を設け、その範囲内で飼育する者には補助金を出している。いわゆる環境支払いである。豚・羊・鶏にも適用されるLivestock Unit(家畜単位)から計算され、過密飼育を規制し避けている。「密」がいけないのは、何も新型コロナ感染症だけではない。
 牛のゲップはメタンガスであり、CO2をはるかに上回る温暖化要因となる。人間用に本来の餌でない穀物を多く与える不自然な飼い方をしている。日本の霜降り牛肉などその典型的悪例である。地球環境を汚す迂回生産は少なくし、植物性の食べ物にとどめようという動きである。最近話題になり始めた「代用肉」もその延長線上にある。
 つまり、OIEの勧告は、欧米先進国の国民の考えの中にある変化の基調を体現しているに過ぎないのだ。ところが、日本は国も国民も9割の人がビーガンという言葉すら知らない。SDGsバッジをつける人が多いが、実効が伴っておらずこの分野では世界の孤児になりつつある。
 家畜が消えた長野県の北信地方は何十年もの間、家畜由来の堆肥が田畑にほとんど入っていない。日本はかつて2千万トン、今でも1千4百万トン、アメリカから飼料穀物を輸入し、農家と呼べない経営体が、まるで動物工場のようにそれを卵に肉にそして牛乳に加工しているだけなのである。おおよそ自然の状態ではない飼い方に堕してきたのだ。だから、我々が食べているのは人間の食味に合わせてやたらと脂肪分を多くした奇形牛、奇形豚、奇形鶏という異常な動物の肉を食べているのだ。そのため南九州の一部がオランダと同じ状態になりつつある。

<消費側から畜産業の正常化を促す>
 CO2の排出を減らす世界では、石炭火力への投資を行わなくなりつつあることと同じように、動物の福祉への配慮を求める企業の動きも見られる。例えば、2005年にアメリカのスーパー・ホールフーズがケージ飼いの卵を拒否して平飼いだけしか扱わなくなり、その後カリフォルニア州がケージ飼いを禁止した後、一挙に平飼いの卵しか扱わない食品企業が増えた。外食のマクドナルド、スターバックス、ホテルのヒルトン、食品大手ではネスレ等、既に実行に移したところもあるが、少なくとも宣言して企業の姿勢を示している。こうした動きを受けて、2025~30年にかけて欧米先進国から鶏のケージ飼いが一掃される可能性がある。
 消費者の力は絶大である。消費者がそっぽを向けば生産者はそれに合わせないとやっていけなくなる。望むらくは、日本人の消費者がもっと自らの健康も意識した上で、動物や家畜やペットの健康、さらには環境すなわち地球の健康に配慮した生き方に変わっていくことである。世界共通の課題、気候変動対策への対応と全く同じで個々人の第一歩から始める以外にない。

2021年10月 2日

【歪んだ畜産シリーズ3】犬の放し飼い禁止もいずれ世界から批判される -日本の供養の精神を復活して動物に優しく- 21.10.02

<放し飼いの犬も悪さはしなかった>
 小学生時代の私の飼い犬テス(私のイニシャルT・Sからとった)は、今と違い放し飼いが許されていた。一応夜は鎖に繋がれていたが、私が学校から帰ってくると一緒に畑に行ったり遊びに行った。家の屋敷の中だけでなくそこら中を自由に走り回っていた。
 ところがテスには悪い遊びがあり、その一つがにわとりを追い駆け回すことだった。もちろん、鶏が大騒ぎして逃げ回るのを楽しんでいるだけで噛み殺したりはしなかったが、祖父は鶏が恐がって卵を産まなくなると怒ってテスをどこかにくれてしまった。僅かばかりの卵だったが、貧しい農家にとっては大事な収入源だったからだ。

<家の中で飼われ、リードでつながれて虐待(?)される日本の犬>
 欧米での動物の権利、動物福祉の動きは、1964年英のルース・ハリソンの著書"Animal Machine"から始まったと言われている。続いて1975年ピーター・シンガーの「動物の解放」が影響を与えた。①飢え・渇き②不快③痛み・外傷・病気➃恐怖抑圧からの自由、そして5番目の「通常の行動様式を発現する」自由が唱えられた。EU等のケージ飼いの禁止もこの5番目の自由の確保からきている。
 狂犬病予防の観点から犬の放し飼いが地方自治体の条例で禁止されている日本の犬には、この5番目の自由が全くなく虐待を受けていることになる。自由に歩き回るという犬の通常の行動様式を抑圧しているのだ。ドイツの一部の州では犬をつないで飼うことが禁止されている。その他子犬は8週齢まで母犬から離してはならないとされ、当然つながれることがない。フランスの三ツ星レストランには人間の子供は入れないが、訓練された犬は入店できるのだ。
 ところが、1960年代後半以降日本では、テスのような放し飼いはできなくなった。この結果、犬の小便の臭いが消え、鳥獣害の被害が拡大していることを14年前の予算委員会の質問で指摘し、中山間地域では犬の放し飼いを認めるべきだと力説したが一向に改善されていない(しのはらブログ 2007年3月1日予算委員会「地域間格差問題」集中審議報告(その5)07.03.14)。

<いずれ日本の犬の虐待が追及される>
 犬や猫のペットは核家族化や1人暮らしの増加とともに増え、2008年にピークを迎えその後減り続けている。(表「犬・猫飼育数の推移」)犬・猫飼育数の推移.pdf
 減ったとはいえ、2020年犬は849万頭、猫の964万頭と猫のほうが多く飼われている。そうした中で唯一褒められるのは、40年前の1979年には犬98万頭、猫12万頭の殺処分がされていたのに、関係者の努力で2019年にはそれぞれ5,635頭、2万7,108頭と激減していることである。(表「犬・猫の殺処分数の推移」)犬・猫の殺処分数の推移.pdf
 1960年には、単独世帯数は372万世帯にすぎなかったが、2015年には1,842万世帯と5倍に増え、1世帯当たりの平均が4.14人から2.33人に減っている。日本人は急速に孤独な暮らしをするようになった。その一つの救いがペットであり、子供や家族の代わりに愛情を注ぐようになったのだ。(表「単独世帯数及び1世帯当たり人員の推移-全国」(1960年~2015年))単独世帯数及び1世帯当たり人員の推移.pdf
 ところが、可哀相に犬は家の中で飼われ、リードにつながれて散歩に連れていってもらわないかぎり、外を歩き回ることができない。人間(飼い主)の都合しか考えていないのだ。
 世界動物保護協会(WSAP)は世界各国の保護度合を評価しているが、日本は総合評価Eで畜産動物はG評価と、先進国中最低である。日本の養鶏がOIEから勧告を受けたとのと同様、ペット犬の扱いについてWAPから厳しい指摘を受けるのは時間の問題である。ペット犬の愛好家が、日本の現状を自ら改善していくことをなぜしようとしないのか、私は不思議でならない。自分の愛玩だけを考えて、犬の権利や福祉に目を向けようとしていない。イギリスの東部の動物園は、13頭のゾウをケニアの群れに渡して自然に戻している。このような動きが世界中で見られるというのに、日本はあまりに無頓着である。

<福島原発事故で置いてきぼりにされた家畜やペット>
 チェルノブイリ事故の被害は、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの三国の境界地帯にあったため、ベラルーシの農村地帯のほうが汚染度合は高かったと言われている。当時ベラルーシ政府は近所の農民に速やかに避難しろと命じていたが、農民は家畜も同伴し、数日かけて歩いて避難している。もちろん家畜など置いて、放射能が漂う外気に接しないようにして移動すべしと命じたが、その命に従わず家畜も一緒に歩きながら移動してしまっている。
 日本では福島第一原発事故の際、飼っていた牛もペットの犬猫も置き去りにせざるを得なかった。なぜなら、道路は避難する車で埋まり、とても家畜やペットを連れて行く余地はなかったからだ。そのため鎖につながれた乳牛は、柱をかじりながら餓死し、放たれた牛やペットは放射能を大量に浴びて野生化していたのである。その野生牛が民家に入り込んで荒らすなどの事態を重視した政府は、牛の殺処分を命じた。こうした牛の数は1,700頭にも及んでいる。馬頭観音で役に立った馬や役牛を供養してきた日本人は動物や家畜に対する慈しみが大きく、農民の気持ちを考えると身につまされる。そして残された家畜やペットの末路には涙を禁じ得ない。

<中山間地域から犬の放し飼いを復活>
 日本は、家畜の飼い方を変えるだけではなく、国際社会から批判される犬の飼い方も改善していくことを考えなければならない。動物愛護については劣等生の日本の一石二鳥の解決策は、犬の放し飼いを鳥獣被害に悩む中山間地域から認めることである。
 犬の嗅覚は、人間の比ではない。最近の研究によると猪のほうが上であり、更にその上を行き水辺の臭いまでわかるのが象だそうだ。だてに鼻がやたら長いのではなく、ちゃんと機能が備わっていたのだ。野生動物も臭いが行動の元になっており、縄張りがある。残された小便や大便で他の動物の縄張りを知り近づかないのだ。
 つまり、猿も猪も鹿も鼻で嗅ぎ分けて、犬の活動範囲には足を踏み入れない。だからかつて日本の山村ではどこでも犬を飼っていた。

<オオカミの復活も一理ある>
 増えすぎた鹿が幼木を喰いちぎり、日本の山を荒らす原因となっている。生態系バランスを元に戻すためにオオカミを復活させるべきだ、という考え方もあり、「日本オオカミ協会」は真剣に取り組んでいる。その前に、オオカミの尿を輸入して畑に撒いて、鳥獣の追い払いができるか効果の程を検証している人もいる。前述の臭いで追い払おうというものだ。
 「『コロナ禍で起きたウッドショック』21.08.02」で指摘したとおり、中山間地域は丸太・製材の輸入自由化で生きていけなくなっている。そこに追い打ちをかけているのが鳥獣害の被害である。京都のお寺でもあるまいに、電気柵を設けていてはコストが上がってやっていけない。だからただの犬の放し飼いで防止すべきなのだ。
 今42の都道府県に犬の放し飼い禁止条例があり、ない県も全市町村に条例があり、日本中で禁止されている。そうした中、福島県だけが「山間へき地等において、人、家畜、耕作物を野獣の被害から守るために飼い犬を使用するときには、けい留義務を免除されている。まずこれを全国に広めるべきである。そして、その延長線上で、飼い主がきちんと犬を訓練し、放し飼いできるようにすることである。

<ペットショップはワシントン条約違反の温床にもなっている>
 話が長くなるのでやめるが、ペットショップでいとも簡単に犬を買うことができることにも問題がある。もう一つ、狂犬病の予防接種の徹底は見事だが(ワクチン接種は義務ではない)、それなら欧米にみられるように飼い主の講習を義務付けるのも一案である。犬にだけしわ寄せがいっており、人間も飼い方を改めなければならない。
 50年前までは、犬は放し飼いだったのだ。それを一罰百戒で、狂犬病予防という一点のために犬を虐待し始めたのである。要は供養の精神を思い出し、動物や家畜への対応を昔に戻すだけのことで、欧米と同じになれば批判されないで済むのだ。