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【衆院選総括シリーズ①】コロナ感染症防止優先の変則的選挙を貫き通した選挙- 名前を書いてくださった12万人余の支持者に感謝 - 21.11.16

 今回の衆院選に私はある覚悟を持って臨んだ。結果はどうあろうと故羽田雄一郎参議院議員の無念の急逝に照らし、活動を通じてコロナ感染者は絶対に出さないような選挙にしようと当初から心に決めていた。
 なぜなら選挙は『祭』にもたとえられるが、そのイベントが中止され、人数制限されているのに選挙だけが例外であってはならない、と考えたからである。公示2ヶ月前の8月19日、全国の感染者数は2万5,341人(長野県158人)、1ヶ月前の9月19日は3,396人(同26人)、に減っていたが、19都道府県の緊急事態宣言が解除されたのは9月30日のことであり、とても室内のミニ集会を開催すべき状況ではなかった。

<コロナ感染症防止を前面に出す>
 今回のコロナ禍の総選挙は、私にとっては相当厳しい選挙となることは予想していた。2020年1月以来私の地元活動の2本柱がままならなくなっていたからだ。私の後援会活動の中心に据えてきたミニ集会が、コロナ禍で2年間一切できなかった。そればかりか、支持者訪問をしても「こんなところまで来てくださって。だけど、扉は開けずにビラをそこに置いていってくれねえかい」というような反応もあり、自粛の連続だった。
 そのため総選挙は濃密接触を避けるべく、「ビラ」「街宣」「電話」の3つのみで選挙活動をやることにした。公示前は市民連合等にも手伝ってもらい今までしたことがなかった集合住宅・アパートへのビラのポスティング、公示後は電話で投票をお願いすることと街宣車からの訴えである。つまり選挙に不可欠の有権者との直接接触のない選挙活動である。

<初めての本格的ポスティングも集合住宅だけ>
 従来、戸別訪問でも、転居者が多いアパートや入り口が入りにくい10階建てのマンション等には近づかなかった。
 ところが、4月の羽田次郎補欠選挙の折、会合もなく、することがなかったので自ら自転車に乗り、長野市中心部の集合住宅に新人のチラシのポスティングをして歩いた。話をする訪問と異なり、効率は良かった。秘書にもさせたところ、何と長野1区内に集合住宅が4万戸もあることが判明した。そこで、4万戸に、私の最新の国政報告を配布した。ただ、戸建ての一軒一軒まではお金も人手もなくポスティングはしていない。

<慣れない街宣車も乗員は3人以下>
 民主党が上り調子の2009年の政権交代の選挙の時はもっぱら街宣車にばかり乗っていた。しかし、下り坂になった12年、14年、17年と街宣車にはほとんど乗っていない。
 今回は一転、街宣車に乗ることにした。ただ、ここでも濃厚接触・密を避け3人までとした。アクリル板で仕切っても、大きな声で喋ると飛沫が飛び散る危険が大きいからだ。5日半は街宣車に乗ったが、その内3日は私とドライバーだけ、残りもウグイスは1人のみだった。
 また、政党の長野県連が所有する街宣車を3日、北陸信越ブロックとして使用できる街宣車も1日使うことができたが、3区と5区の新人候補を優先させて私は一切使わなかった。だから、それこそ静かな選挙戦となった。

<街宣の辻立ちの動員もせず>
 街宣車が行く先によく支持者を集めることがあるが、今回は要請があった数ヶ所にとどめた。
 ただ、何人がどこで聞いてくれているかわからない辻立ちは、前半は抑えつつ、後半は1日20回近くに及んだ。私が過去3回の選挙でやってきたミニ集会と比べると接触度合いは著しく少ない。街宣はやはり一方通行であり物足りない。

<ミニ集会に替わる双方向コミュニケーションとして電話で応える>
 ミニ集会の代わりに私が苦し紛れに考え出したのは、私が直接応える電話作戦である。人手が多いところは電話帳でやることが多いと聞くが、私は支持者名簿の方への電話での依頼だけだった。
 今回は1番手間のかかるミニ集会がないので秘書が全員電話かけをし、ご意見を頂いてメモにし、それに対して私がお答えするという手の込んだ方式である。

<20年6月に予行演習>
 2020年の3月から6月に県間移動の自粛要請が出ていた時に、私は政府の決定に従い3ヶ月間一切長野に戻らないようにした。元々秘書には訪問した際にご意見を頂いたら書き留めて日報の形で報告するようにしているが、その時は更に電話番号を書き留めさせた。なぜなら長野に戻れない私が東京から電話で応えるためだった。ところが忙しくてそれほど進まなかった。そこで今回選挙前に「お返事が遅れましたけれども」と電話かけの予行演習をしたところ、濃密的な意見交換ができた。それを選挙期間に再現しようとしたのである。
 そして、まずこのことを選挙用はがき、証紙ポスター、証紙ビラに「しのはら孝が電話します」と公表した。ただ、多くの有権者、支持者に私が全員に電話をかけるという誤解も生じてしまい、電話が来るのを楽しみに待っていたのに来ないと先制の電話をしてきた方も多かった。この点については大変申し訳なく思っている。

<奥ゆかしい支持者の配慮で長話なく、メモも予想より少ししか集まらず>
 ところが公示から1~3日間は秘書がポスター作業にかかり切りで電話ができず、ご意見も集まらなかったので、その残りに電話を掛けたところ、選挙が始まっているのだからと通話を長く続けようとしないのだ。
 そして、これは後のメモ収集にもつながった。遠慮なく話せるはずの秘書に対しても、忙しいだろうからと意見がそれほど出なかった。そこに私が電話をかけると、これまた恐縮されてあまり話をされない方が多かった。皆さん忙しい選挙期間を慮っての遠慮である。私は奥ゆかしい支持者の方々に頭が下がる思いだった。
 だから期待したほどたくさんの方々と双方向コミュニケーションはとれなかった。60~70回のミニ集会だと2,500~3,000人と直に話ができていたのに、コロナ禍で手足がもぎ取られた感じがした。我が事務所の秘書は常日頃から、支持者の意見・注文を数行のメモにして業務報告に書いて私に知らせる癖がついており、集められたご意見のまとめも簡にして要で感心した。今後の私の政治活動の糧になること請け合いである。

<全て小さな事務所のみで、応援弁士も一切なし>
 それから事務所開き、出陣式、開票報告会も小さな事務所で全てやり、ホテルなどの会場設営はしなかった。元々私の選挙では選挙事務所に出入りする人が少ないが、今回は電話かけのボランティアの皆さん以外は、密を避けるために多くの人に来ていただくことは避けた。応援弁士も一人もなしと徹底した。事前や選挙期間中の選対会議等も意図的に省いた。
 そこまで徹底したためか、私の選挙活動からは感染者を1人も出さずに無事終えることができた。4回連続の小選挙区当選は逃したが、私は感染者がゼロであったことに安堵した。これに対して、悠々当選できるという思い上がりの殿様選挙をしているとのいわれなき中傷も耳に入ってきたが、全く的外れであり、私の気持ちが通じなかったのは残念である。

<直接的訴えなしの私の戦略ミスに対して、12万票には深く感謝>
 途中の報道や開票報告で、全国ではいつもと変わらぬ選挙活動が行われているところも多かったことが伝えられて、正直なところ驚いた。つい2ヶ月前の8月中旬、1日の感染者数は2万5千人余に達していたのに、それが公示日は371人(長野県4人)と幸いなことに劇的に減っていた。結果は私の戦略ミスだが、もしも感染者が減らないまま選挙に突入していたらと考えるとぞっとする。私のやり方こそ正当と言えたのではないかと思っている。
 有権者からすれば、街宣車が来ない、篠原の顔が見えない、真面目に選挙活動をしていないとの印象を抱くのも無理のないことである。それにもかかわらず12万人余もの多くの方々に名前を書いていただき、7度目の議席を与えていただいた。天国の羽田雄一郎議員が、苦笑いして「そこまで律儀にしなくてもよいのに」と助けてくれたからに違いない。身を引き締めて政治活動に当たらなければならないと決意を新たにした。
〔③まで続く〕