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2021年11月25日

【衆院選総括シリーズ②】 野党共闘の明(都市部)暗(地方) - 穏健保守の支持者の多い地方には不利に働く - 21.11.24

<2016年参院選から本格化した長野県の野党共闘>
 まだ長野県が2人区時代、北沢俊美、羽田雄一郎は共産党候補が出ていても大体自民党を上回る得票があった。ところが1人区となって初の2016年参院選では、民進党の杉尾秀哉当選のため、長野県は多分全国で初めて正式に共産党、社民党と政策協定を結び、仰々しくホテルでの調印式までして野党共闘を演出した。2019年の羽田は野党共闘までの必要がなかったかもしれないが、そのまま続けた。国民民主党の低支持率にも拘わらずNHKの当確が真っ先に出るほどの圧勝だった。(別表1:参議院長野地方区 与野党対決 得票の推移.pdf
 しかし、国民民主党の1人区当選は羽田のみ、立憲民主党でも宮城県の石垣のり子だけであり、あとの8人は全員野党共闘で無所属だった。このことから参議院の1人区で自公を破るには野党共闘しかないことがわかる。

<野党共闘について集中的批判を浴びた4月の長野の補欠選挙>
 2021年春、広島の参院選と北海道2区の衆院選そして我が長野県では羽田議員の逝去に伴う参院選という3つの選挙が行われた。当然ここでも野党共闘を続けた。赤旗で大々的に取り上げられ、また補欠選挙ということで目立ったせいか、全国的に注目を浴び、連合の一部からも立憲民主党執行部からも批判された (「次期総選挙の3つの前哨戦は完勝で政権交代に結びつける」2021年4月11日しのはらブログ参照)。市民連合、共産党、社民党との合意文書の見直しや破棄の声が上がる中、私は梃でも動かず押し通した。その結果羽田次郎候補が勝利を収めている。

<長野県連内の熾烈な議論>
 そして2021年の衆院選である。参院選と違って衆院選では野党共闘は、全国レベル・県連レベルでは一切せず、その代わり各小選挙区の事情により各候補の判断により対応したらよい、というのが私の考えだった。
 後述するが、1区では野党共闘によるメリットもあるがデメリットも大きいことがわかっていた。しかし、他の選挙区では野党共闘した方がずっと当選の可能性が高くなることが予想された。また、小選挙区ごとに合意文書を作っていては各候補者が時間をとられて大変になるという意見もあり、市民連合と合意文書を取り交わすこととした。県連代表として他の選挙区の皆さんが選挙をやり易いようにすることを優先した。この時に私の苦戦を予想していた。
 後で調べてみてわかったことだが、長野県と同じように県連レベルで合意文書を取り交わしたのは数県に過ぎなかった。

<3区、5区は野党共闘がまさに活きる選挙区>
 衆院選は政権選択の選挙である。すべて1人区なのだから参院選の1人区同様、野党共闘した方が良い点もあるが、事情は各選挙区よって相当異なる。例えば、長野県でも3区の神津健や5区の曽我逸郎は野党共闘がなければ戦えなかった。3区には羽田の支持母体・千曲会があり、これこそ穏健保守だが、野党で当選した井出庸生が自民党に寝返ってしまっており、野党共闘で自民党に徹底して立ち向かうしかなかった。また5区は宮下創平・一郎と続く保守の牙城であり、野党一丸とならなければとても太刀打ちできない。

<17年総選挙で既に穏健保守が篠原を避け始めていた>
 しかし、私の場合は得票のことだけを考えたらプラス面だけではなく、マイナス面も目立っていた。2017年に私が無所属で立候補し、13万票をいただき、小松裕に4万6千票の大差をつけたが、近畿から遠く離れているのに無名の維新の候補者が2万3千票余も得票した(比例票は1万5千票)。これは直前に共産党が初めて候補者を降ろしたことだけでも、私の穏健保守の支持者が反発、さりとてダメな自民党に投票する気がなく、仕方なく第3極の維新に流れたのも多かったと思われる。今回全国的に支持が急拡大した維新であるが、1区の比例票では2万票弱と5千票しか増えていないが、小選挙区では大半が自民党候補に流れたと思われる。(表2:21年総選挙 比例区との得票数比較.pdf

<4月に批判された長野モデルがいつの間にか全国に>
 それに対して今回は4月に枝野代表が神津連合会長に「軽率な長野県連がご迷惑をかけてすいませんでした」と謝りに行くなど、長野県連が野党共闘の象徴となっていた。更にそれを引っ張っているのが、県連代表の私だという固定観念が広まっていた。そこに4月には野党共闘に否定的だった枝野代表が、9月8日に共産・社民・れいわを加えた4党と市民連合で政策協定を結び一緒の写真におさまり署名した。福山幹事長は、政策協定は長野県連がやっていることで立憲民主党が引っ張られることはないと切って捨てていたが、同じことをしたのだ。長野県連は野党共闘を進めており、これを受けて9月17日に市民連合と選挙協力の合意文書を取り交わした。かくして私はまさに「立憲共産党」の象徴的候補になってしまった。

<前述のとおり篠原の小選挙区敗北は野党共闘の失敗の象徴にあらず>
 全国各地で同僚議員が苦戦し、直前の世論調査をも裏切って110議席から14議席も減らしたのは、野合「立憲共産党」批判であった。
 結果が全ての政治の世界では、12、14、17年と野党が苦しい選挙の中で小選挙区を3連勝し、09年を含めると4連勝していた私が敗れたことで、野党共闘が間違っていた一つの証拠とみられる向きもある。確かに私の場合はそう言えないこともない。ただ、上述のとおり全体が失敗だったと決めつけてはならない。

<都市部は衆院選でも野党共闘が功を奏す>
 例えば、私のような穏健保守の支持者がもとから少ない都市部の同僚議員のことを考えればすぐわかる。もともとリベラル色の強い人たちが支持者の大半を占める神奈川、東京等では野党共闘がうまくいき、共産党が降りたことにより票数を伸ばしている。全289小選挙区の75%にあたる217選挙区で候補者を一本化でき、野党等無所属で62人が当選し、立憲民主党でも小選挙区当選を48から57に増やしたのは成功と言えよう。
 小選挙区当選者を数で見ると、東京5→8、神奈川5→7、千葉1→4、埼玉2→3と9人増やしている。もっと象徴的なことで言えば、甘利明の小選挙区敗北、石原伸晃の落選は、野党共闘の成果以外の何物でもない。ただ、比例区を含めた当選者数はそれほど変わっていない。立憲民主党の支持率が上がらないことの当然の結果である。

<32の接戦区は、地方では逆に追い詰められたほうが多い>
 野党共闘の成功の証の一つに、32選挙区で1万票以内の接戦を演じたことが挙げられるが、前回は小選挙区で当選していながら、今回は接戦に追い込まれてしまったという逆のケースも数多くあり、一概には言えない。逆の傾向は地方の選挙区で見られ、ここに小沢一郎や、中村喜四郎、私も入っている。従来の支持者である穏健保守が離れた影響は少なくない。小沢も中村も元自民党、私は羽田民主党なのだ。
 70歳を超える高齢のせいとも論じられているが、それだけを原因とするにはスッキリしない。なぜなら同じく高齢の菅直人や阿部知子は、選挙に強いとは言えないにもかかわらず、小選挙区で当選している。都市部の選挙区で元々穏健保守層などに支えられておらず、野党共闘がそのまま有利に働いたからだ。

<野党共闘が穏健保守支持者(中間層)を失うデメリット>
 他に同じように差を縮められている者を挙げると、中川正春、渡部周、青柳陽一郎、白石洋一、中島克仁、海江田万里と9人になる。また、入手した某党による直前の支持率調査結果(10月7~10日)との比較で見ると、鈴木庸介、吉田統彦、牧義夫、桜井周(以上都市部)、山田勝彦の5人以外はリードしていたものを逆転され、比例復活当選に回っている。つまり、少なくとも終盤には自民党が意図的に「立憲共産党」と喚き続けたため逆に作用してしまったようだ。詳細は避けるが上記の某党調査との比較で見ると、野党共闘が都市部では有効に働き、最終盤でもリードを広げたが、地方では軒並みリードを縮められ、大逆転させられている。
 変わったところでは、立憲民主党ながら右寄りの松原仁(東京3区)は、共産党が候補者を立てて約3万票(11.3%)も取っているが、09年以来の4回振りに小選挙区で当選している。笠浩史(神奈川9区)は維新に2万5千票、共産に2万票も取られながら小選挙区で勝利している。更に国民民主党の浅野哲(茨城5区)、西岡秀子(長崎1区)は、共産党候補が出馬したにも拘わらず小選挙区で当選している。この結果が何を物語っているか考える必要がある。(別表2)

 冒頭に述べたとおり、小選挙区の状況により野党共闘がうまく働くところ(都市部)とデメリットがずっと大きいところ(地方)があるのだ。

2021年11月16日

【衆院選総括シリーズ①】コロナ感染症防止優先の変則的選挙を貫き通した選挙- 名前を書いてくださった12万人余の支持者に感謝 - 21.11.16

 今回の衆院選に私はある覚悟を持って臨んだ。結果はどうあろうと故羽田雄一郎参議院議員の無念の急逝に照らし、活動を通じてコロナ感染者は絶対に出さないような選挙にしようと当初から心に決めていた。
 なぜなら選挙は『祭』にもたとえられるが、そのイベントが中止され、人数制限されているのに選挙だけが例外であってはならない、と考えたからである。公示2ヶ月前の8月19日、全国の感染者数は2万5,341人(長野県158人)、1ヶ月前の9月19日は3,396人(同26人)、に減っていたが、19都道府県の緊急事態宣言が解除されたのは9月30日のことであり、とても室内のミニ集会を開催すべき状況ではなかった。

<コロナ感染症防止を前面に出す>
 今回のコロナ禍の総選挙は、私にとっては相当厳しい選挙となることは予想していた。2020年1月以来私の地元活動の2本柱がままならなくなっていたからだ。私の後援会活動の中心に据えてきたミニ集会が、コロナ禍で2年間一切できなかった。そればかりか、支持者訪問をしても「こんなところまで来てくださって。だけど、扉は開けずにビラをそこに置いていってくれねえかい」というような反応もあり、自粛の連続だった。
 そのため総選挙は濃密接触を避けるべく、「ビラ」「街宣」「電話」の3つのみで選挙活動をやることにした。公示前は市民連合等にも手伝ってもらい今までしたことがなかった集合住宅・アパートへのビラのポスティング、公示後は電話で投票をお願いすることと街宣車からの訴えである。つまり選挙に不可欠の有権者との直接接触のない選挙活動である。

<初めての本格的ポスティングも集合住宅だけ>
 従来、戸別訪問でも、転居者が多いアパートや入り口が入りにくい10階建てのマンション等には近づかなかった。
 ところが、4月の羽田次郎補欠選挙の折、会合もなく、することがなかったので自ら自転車に乗り、長野市中心部の集合住宅に新人のチラシのポスティングをして歩いた。話をする訪問と異なり、効率は良かった。秘書にもさせたところ、何と長野1区内に集合住宅が4万戸もあることが判明した。そこで、4万戸に、私の最新の国政報告を配布した。ただ、戸建ての一軒一軒まではお金も人手もなくポスティングはしていない。

<慣れない街宣車も乗員は3人以下>
 民主党が上り調子の2009年の政権交代の選挙の時はもっぱら街宣車にばかり乗っていた。しかし、下り坂になった12年、14年、17年と街宣車にはほとんど乗っていない。
 今回は一転、街宣車に乗ることにした。ただ、ここでも濃厚接触・密を避け3人までとした。アクリル板で仕切っても、大きな声で喋ると飛沫が飛び散る危険が大きいからだ。5日半は街宣車に乗ったが、その内3日は私とドライバーだけ、残りもウグイスは1人のみだった。
 また、政党の長野県連が所有する街宣車を3日、北陸信越ブロックとして使用できる街宣車も1日使うことができたが、3区と5区の新人候補を優先させて私は一切使わなかった。だから、それこそ静かな選挙戦となった。

<街宣の辻立ちの動員もせず>
 街宣車が行く先によく支持者を集めることがあるが、今回は要請があった数ヶ所にとどめた。
 ただ、何人がどこで聞いてくれているかわからない辻立ちは、前半は抑えつつ、後半は1日20回近くに及んだ。私が過去3回の選挙でやってきたミニ集会と比べると接触度合いは著しく少ない。街宣はやはり一方通行であり物足りない。

<ミニ集会に替わる双方向コミュニケーションとして電話で応える>
 ミニ集会の代わりに私が苦し紛れに考え出したのは、私が直接応える電話作戦である。人手が多いところは電話帳でやることが多いと聞くが、私は支持者名簿の方への電話での依頼だけだった。
 今回は1番手間のかかるミニ集会がないので秘書が全員電話かけをし、ご意見を頂いてメモにし、それに対して私がお答えするという手の込んだ方式である。

<20年6月に予行演習>
 2020年の3月から6月に県間移動の自粛要請が出ていた時に、私は政府の決定に従い3ヶ月間一切長野に戻らないようにした。元々秘書には訪問した際にご意見を頂いたら書き留めて日報の形で報告するようにしているが、その時は更に電話番号を書き留めさせた。なぜなら長野に戻れない私が東京から電話で応えるためだった。ところが忙しくてそれほど進まなかった。そこで今回選挙前に「お返事が遅れましたけれども」と電話かけの予行演習をしたところ、濃密的な意見交換ができた。それを選挙期間に再現しようとしたのである。
 そして、まずこのことを選挙用はがき、証紙ポスター、証紙ビラに「しのはら孝が電話します」と公表した。ただ、多くの有権者、支持者に私が全員に電話をかけるという誤解も生じてしまい、電話が来るのを楽しみに待っていたのに来ないと先制の電話をしてきた方も多かった。この点については大変申し訳なく思っている。

<奥ゆかしい支持者の配慮で長話なく、メモも予想より少ししか集まらず>
 ところが公示から1~3日間は秘書がポスター作業にかかり切りで電話ができず、ご意見も集まらなかったので、その残りに電話を掛けたところ、選挙が始まっているのだからと通話を長く続けようとしないのだ。
 そして、これは後のメモ収集にもつながった。遠慮なく話せるはずの秘書に対しても、忙しいだろうからと意見がそれほど出なかった。そこに私が電話をかけると、これまた恐縮されてあまり話をされない方が多かった。皆さん忙しい選挙期間を慮っての遠慮である。私は奥ゆかしい支持者の方々に頭が下がる思いだった。
 だから期待したほどたくさんの方々と双方向コミュニケーションはとれなかった。60~70回のミニ集会だと2,500~3,000人と直に話ができていたのに、コロナ禍で手足がもぎ取られた感じがした。我が事務所の秘書は常日頃から、支持者の意見・注文を数行のメモにして業務報告に書いて私に知らせる癖がついており、集められたご意見のまとめも簡にして要で感心した。今後の私の政治活動の糧になること請け合いである。

<全て小さな事務所のみで、応援弁士も一切なし>
 それから事務所開き、出陣式、開票報告会も小さな事務所で全てやり、ホテルなどの会場設営はしなかった。元々私の選挙では選挙事務所に出入りする人が少ないが、今回は電話かけのボランティアの皆さん以外は、密を避けるために多くの人に来ていただくことは避けた。応援弁士も一人もなしと徹底した。事前や選挙期間中の選対会議等も意図的に省いた。
 そこまで徹底したためか、私の選挙活動からは感染者を1人も出さずに無事終えることができた。4回連続の小選挙区当選は逃したが、私は感染者がゼロであったことに安堵した。これに対して、悠々当選できるという思い上がりの殿様選挙をしているとのいわれなき中傷も耳に入ってきたが、全く的外れであり、私の気持ちが通じなかったのは残念である。

<直接的訴えなしの私の戦略ミスに対して、12万票には深く感謝>
 途中の報道や開票報告で、全国ではいつもと変わらぬ選挙活動が行われているところも多かったことが伝えられて、正直なところ驚いた。つい2ヶ月前の8月中旬、1日の感染者数は2万5千人余に達していたのに、それが公示日は371人(長野県4人)と幸いなことに劇的に減っていた。結果は私の戦略ミスだが、もしも感染者が減らないまま選挙に突入していたらと考えるとぞっとする。私のやり方こそ正当と言えたのではないかと思っている。
 有権者からすれば、街宣車が来ない、篠原の顔が見えない、真面目に選挙活動をしていないとの印象を抱くのも無理のないことである。それにもかかわらず12万人余もの多くの方々に名前を書いていただき、7度目の議席を与えていただいた。天国の羽田雄一郎議員が、苦笑いして「そこまで律儀にしなくてもよいのに」と助けてくれたからに違いない。身を引き締めて政治活動に当たらなければならないと決意を新たにした。
〔③まで続く〕

2021年11月 2日

麻生自民党副総裁の「うまい米は温暖化のおかげ」発言を糾弾する -農業に冷たい自民党政権のボロが出た-21.11.1-

<人口減少の農村を捨てる自民党>
 自民党政権の牙城は相変わらず地方の農村である。我々が2009年に民主党で政権をとってそれが少々崩れつつあるが、農村を多く抱える都道府県では強い。特に西日本では自民党議員が跋扈している。とは言いっても全国的に見ると安倍政権からあるいはその前の小泉政権から、農民・農村を基盤にした自民党という形が崩れつつある。自民党は明確に人口の多い都市部に媚びて、人口減少の続く農村を捨てる(あるいはないがしろにする)姿勢を打ち出し始めている。それを露骨に出しているのが、身を切る改革が売り物の維新である。構造改革路線ないし規制改革路線であり、更に安倍政権になって農政を軽視し出したことが目につくようになった。

<大臣人事に現れた農政軽視>
 人気取りのために小泉進次郎が農林部会長、農政には全く無縁の当選3回の元経産官僚の齋藤健が農林水産大臣に就任している。かつての自民党では素人の大臣は一人もいなかった。それでもまだ安倍元首相は、「はっと驚くような美しい田園風景を守る」とかいう美辞麗句を多用して、農民・農村を重視している振りだけはしていた。

<農民出身なのに農業・農村に冷たかった菅前首相>
 ところがそれを引き継いだ菅政権はそういった発言すら一切なかった。
 菅前首相は美談風に秋田の農家の生まれで、高校卒業後東京に飛び出し、苦学生として法政大学を出た、と宣伝された。農業が嫌で農村を飛び出しただけあって、所信表明演説でも、農政では農産物輸出について触れただけである。また農林水産大臣人事に農業軽視の極めつきの事例が現れている。野上浩太郎農林水産大臣は、農林水産委員会など一度も所属したことはないばかりか、富山県出身の参議院議員であるにもかかわらず、農林部会すらほとんど出席したことがなかったという。
 厚生労働大臣にプロの田村憲久が2度目の就任をしたり、厚生労働族の後藤茂之が就任するのと比べると、農政軽視が目立つ。

<麻生副総裁のトンデモナイ発言>
 そこに降って湧いたのが麻生副総裁のとんでもない発言である。10月25日、応援で訪れた小樽市で「北海道の米がうまくなったのは、農家のおかげですか。農協のおかげですか。違います、温度が上がったからです。」と言ってのけている。「かつて言われたまずい米の代表の言葉、"厄介道米"と言われていた、それが今や"おぼろづき"や"こちぴかり"で輸出している。」と適当なことを言っている。多分北海道に行く前ににわかレクチャーを受けたのだろう。

<クラーク博士の等の稲作否定に対してもひるまず米作りを始める>
 北海道の米作りは大変な苦労の連続であった。何よりも北海道開拓の当初は開拓使顧問団のケプロン、札幌農学校長のクラーク博士も「北海道は米には向いてない。」と断じていた。そうした逆境の中で農民は米を作りたいという思いを捨てずに頑張っていたのである。
 篤農家の中山久蔵が「赤毛」という品種で苦労して米作りを始めている。それから幾多の農家、研究者等が努力を続けてきたのである。稲作が始まった地・北広島市は、1873年を記念の年として中山久蔵の米作りの歴史をまとめたわかりやすいビデオを製作している。
 今、なんでもアメリカの制度に迎合して派遣法を全産業に適用したり、大規模店舗規制法を廃止してスーパーマーケットをどこにでも造れるようにしたりと、やれとも言われないことまでアメリカに倣っているのに比べると、日本の伝統を大事にする姿勢は見事というほかない。

<北海道の寒冷地稲作を中国に伝えた原正市>
 米への執着は中国人も同様である。日本で米が余り始めた1980年、技術者原正市は、中国に赴き、寒冷地北海道の稲作指導で収量を2倍にし、洋財神(外国から来て懐を豊かにしてくれる神)と感謝された。2002年までの21年間に1522日も中国におり、数々の賞をもらっている。北海道は世界に通用する技術を確立し、中国にまで広めたのだ。江沢民が訪日の折、原は面会している。北海道の寒冷地稲作技術は何かとギスギスする日中の絆になっているのだ。
麻生副総裁はこんなことを知るはずもなく、北海道の農業に心血を注いだ先人たちを冒涜した。当選3回の同僚の衆議院議員は性交同意年齢引き下げを巡る内部会合での発言を問題視され離党し、今回立候補も取りやめた。それと比べて選挙応援という公衆の面前でのこの妄言の方がずっと罪が重いのではなかろうか。

<相次ぐおいしいコメ・ブランドの品種>
 その後も北海道の努力は延々と続き、1988年、北海道に合う"きらら397"ができ、2011年にはマツコ・デラックスの"ゆめぴりか"のCMが功を奏して北海道米が広まっていった。今や北海道は新潟県に次ぐ水稲作付面積10万2,300ヘクタールを誇り、生産量も7.7%とこれまた新潟に次いで2位となっている。栽培面積の平均は全国では1.80ヘクタールだが、空知や上川を中心に北海道の平均は9.52ヘクタールとなっている。果樹や野菜と異なり、機械化による大規模栽培が可能なのだ。
 その後も"ななつぼし"、"おぼろづき"といった優良品種がおいしい米の代表として登場した。自主流通米制度からも排除されていたのはかなり昔のことで、今や北海道米はおいしい米にランクされている。麻生発言はそれを貶めたのである。

<世界に類例を見ない見事な開発の歴史>
 明治の外国人指導者たちの指摘は常識的に見れば科学的根拠があった。もともと米は亜熱帯の原産なのに、日本海側は積雪量が多く寒く、石狩川の周辺は泥炭層が多く、土壌改良から始めなければならなかった。それをたゆまぬ研究と血のにじむような思いで、150年の間に大農業生産地を造り上げたのである。
 よくデンマークの寒冷地農業開発が世界の優良事例としても出てくるが、北海道は150余年の間に人口10万人から562万人も擁する地に発展し、人口はデンマークの一国(580万人)に匹敵するまでになった。あまり特筆されないが、北海道こそ世界に類例がない優良事例である。

<岸田首相の初外遊、COP26(グラスゴー)に冷水>
 折しも岸田首相は英グラスゴーで開催されている国連気候変動枠組条約第26回締約国会議(COP26)で、11月1~2日に行われる首脳会合の一部に出席するため初外遊する予定だという。そうした時に飛び出した麻生副総裁の国際的に恥ずかしい限りの発言である。
当然外国メディアも日本の元首相のズレた見識に驚き批判的に報じている。英タイムズは、岸田首相が出席を明らかにしているにもかかわらず、総選挙直後でもありどうするか迷っているともつけ加えている。米ニューヨークタイムズも英タイムズと同じく、過去に物議を醸したヒトラー関連発言や日本は単一言語の単一民族とした発言も紹介しつつ、地球温暖化にもいいことがあるという非常識な発言に驚きを隠さない。気候変動対策の取り組みに不熱心な日本の象徴的発言ともいえる。このままだと岸田首相はグラスゴーで日本のCO2排出削減への消極的態度と相まって嫌味を言われ、何度目かの化石賞をもらうのは必定である。

<温暖化防止に本格的に取り組まない無責任な日本>
 世界の政治の中心は環境であり、なかでも気候変動が最重要とされている。G20でも2日目の議題は気候変動対策である。先のドイツの総選挙では第3党の緑の党が躍進した。第1党の社会民主党との連立交渉が続いているが、そこの中心課題も気候変動対策である。ところが、日本では今回の総選挙では全くテーマになっていない。せいぜい原発対応ぐらいである。
 私は環境委員会に8年在籍し、農政に力を入れている。その2つの分野にまたがる大失言はとても看過できない。
 とてもではないがこのような幹部を抱える自民党に農政も任せられないし、気候変動対策も任せられない。やはりこの総選挙で政権交代に持っていかなければならないとますます決意を固くした。