来賓あいさつ余話
・中野市制50周年記念式典あいさつ
・飯山市制50周年記念式典あいさつ

国会議員の仕事として、選挙区のいろいろな会合に出向いてあいさつすることがあります。私は、どのような小さな会合のあいさつも、多分他の皆さんよりも余計な時間を費やして話の内容を考えては修正し、時にはあさま号の中で喋ってみながら時間を計ってみるといったこともしています。ごく一部の人しか出席していない会合が多いのですが、数少ない直接接触できる機会なので大事にしないとなりません。国会等で出席できない場合を除き、時間が許す限り出席案内通知がきたものは出席することにしています。

いろいろあいさつさせていただかなくてもよいものも多く、現に単に紹介だけのものもあります。紹介だけのものは、何となく時間の無駄のような気もしないではありません。先輩議員は、あいさつの機会のない会合は出席しないことにしているそうですし、そのようにアドバイスしてくださる方もおられます。しかし、私は何せ顔が知られていないので、顔見世だけでもよいと達観して次から次へ出席しています。従って、国会議員で出席しているのは、私だけという会合も目立つようになりました。1年経ったので今後は取捨選択するつもりです。

そうしたものの一つに、地元中の地元中野市の市制50周年と隣の飯山市の同じ会合があります。古い話になりますが、私は、昨年の選挙の最初の街宣は、最北の村、栄村の役場の前でしました。有権者の最も少ない村です。それは、超過疎の栄村こそ政治の力を最も必要としている所であり、私も農林水産行政の改革により何かしら力になりたいと思っているからであり、その私の思いを訴えたかったからです。その延長線上で、市の中で唯一人口の減りつづけている飯山市が気になり、飯山市の会合は優先して出かけています。そればかりではなく、国会議員になってから、飯水地方の情報紙北信濃新聞を購読しています。ところが、私が殊の外気を遣って出席している飯山市の会合について、北信濃新聞がそのコラム「道しるべ」で「・・・来賓の長広舌の祝辞で多くを占められ・・・」と書かれ、ガックリしました。

与えられた3〜5分のスピーチで何を言うかそれなりに気を遣っているのに、一方的に決め付けられるのは腹立たしいかぎりです。飯山市の会合後、お世辞があるのかもしれませんが、少なくとも2人の出席者から「いいあいさつをありがとうございました」等言われました。そこで、私の覚えているかぎりで、飯山市のあいさつと中野市のあいさつを再現しておきます。「長広舌の・・・」と批判されるあいさつかどうか皆さんにも見ていただきたいと思います。  

中野市制50周年記念式典あいさつ(7月1日)

中野市制50周年誠におめでとうございます。

私、北信タイムスと北信ローカルの50周年記念特集号を熟読してまいりましたが、私の同年の者が中野市立の小学校の最初の入学者だったことがわかりました。その頃から物心がついていますし、中野市の50年はずっと見続けてきたと思います。しかし、50年の歳月の重さを感じざるを得ませんし、私と青木市長は同じ年ですが、私は専ら縦に伸び、市長はどうやら横に膨らんだようです。

私は、故郷を長らく離れていましたが、よく帰ってきておりました。私事で恐縮ですが、長男に信州と書いて「のぶくに」と読ませておりますし、次男は中山晋平の読み方をもらい、隣の高野辰之の辰をもらい、辰平と書いて「しんぺい」と読ませています。どうせ親の思い通りに育つはずがないから、せめて名前だけは付けさせてくれと妻に頼み、しっかり故郷の名前を刻み込みました。もうすぐ中野市と豊田村が合併しますし、辰平はそれを見越してつけた名前じゃないかと一人で悦に入っております。

今日、東京のふるさと信州中野会の押鐘会長も会場に来ておられますが、これだけ故郷中野市のことを想っているのに東京あたりで中野市といってもどうもいま一つです。長野市より更に北の志賀高原の麓だというと「小布施の近くか」と問い直される。非常に癇に障ることでして、50周年を契機にして中野をもっと有名にしていただきたいと思います。

青木新市長は、売れる農業、ブランド化等、中野市の農産品を売り込むことに力を注がれていますが、我々国会議員も、ベテランの小坂さん、北沢さん、農林水産省の先輩の若林さん、そして私も農林水産省に30年勤めていましたし、それなりに国政の立場からバックアップできると思いますので頑張っていただきたいと思います。

それからもう一つ、日本のふるさとのメロディを作ったのが中山晋平、そして、ふるさとの情景を詩にしたのが、高野辰之、日本のふるさとの代表がこの中野市になるわけです。おまけに売れっ子作曲家の久石譲さんも中野市の出身です。私は、日本のふるさとを歌うということも一つの売りにできるのではないかと思います。青木市長は確か高校時代は吹奏楽部でクラリネットを吹いたはず。腕なり音色のほうはよく知りませんが、音楽には造詣が深いはずですし、ふるさとの歌で売り出すには丁度いい市長さんを迎えていると思います。

50周年を迎えるにあたり、2つほど具体的な提案をさせていただきました。

本日は誠におめでとうございます。

飯山市制50周年記念式典あいさつ(7月31日)

飯山市制50周年誠におめでとうございます。今日は記念式典にお招きいただき誠にありがとうございます。

私、隣の中野市田麦の出身でして、飯山のこともそれなりに承知しております。中野市も50周年を迎えましたが、両市の人口の変遷をみますと、飯山市は4万人あったのが今2万6千人、中野市は3万6千人だったのが4万2千人となって逆転しています。

俗っぽい話ですみませんが、今回私は選挙に立候補するに当たって同級生名簿をじっくり眺めてみました。小・中学校の同級生の多くは地元にいますが、住所が変わったりしている人が結構います。驚いたことに大半が南の須坂か長野に移り住んでいて、北すなわち飯山や木島平のほうには2人しかいませんでした。雪が大変なので飯山の皆さんも同じように雪の少ない南へ移り住まれた結果が、人口の逆転に結びついているものと思います。

ただ、私は人口が増えればいいとは思っておりません。逆でして、私が通学した292号線の吉田の田んぼの辺りが見るも無残に乱開発され、昔の面影がありません。中野の人には悪いのですが、はっきり言って見苦しい建物ばかりが目立つのには反吐が出ます。

その点、私は飯山市のほうがずっと将来性があると思います。

この2〜3年の間に「阿弥陀堂だより」という飯山の美しい風景をふんだんに取り入れた映画が作られました。「走れケッタマシーン」というミュージカル映画も作られました。いずれもこの飯山の田舎らしい景色に着目して撮影地に選ばれたものです。私は、主人公は、樋口可南子演ずる女医ではなく、飯山の景色そのものだったと思います。  飯山は、日本中が変な風にいじくり回される中で、一周も二周も遅れていたかもしれません。小山前市長をはじめとして見識のあられる市長が乱開発を許さなかったこともあったと思います。その結果、いまや先頭ランナーになったのではないでしょうか。

昨年、私はこの会場の新幹線の会合で初めて国会議員として来賓あいさつに立ち、「高速道路よりも環境にやさしいし、影響力があります」とあいさつをしたのを覚えています。たぶん、多くの都会に疲れた人たちが、飯山のゆったりした景色に惹かれ、「寄ってかっしゃい」、「お茶でも飲んでかっしゃい」という人情に惹かれやってくると思います。人口が減っても少数精鋭でいいと思います。

50周年を契機に今ある魅力を更に増していい意味の発展を遂げられんことを期待して私のあいさつといたします。

本日は、50周年誠におめでとうございました。

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