畏敬すべき後輩・永岡洋治衆議院議員を悼む

2005年8月4日

8月1日高山村の支持者訪問の帰途、農水省の後輩と政策秘書(妻)から、相次いで永岡議員の自殺の報が入りました。私は、「まさか」と思い、妻の怒りが伝わってきました(理由は後述)。

まず、永岡議員との係わりから始めます。

私の2年後輩ですが、永岡議員は、光輝く後輩でした。理路整然と話し、胆力があり、人当たりもよく、私にとっては役人の鑑でした。私とは似ても似つかないかもしれませんが、積極的に問題に当たり、前向きに進む点は共通です。

私の5年後に、彼も米国留学しました。私がアドバイスし、一時は私と同じワシントン大学海洋総合研究所に行くことになりましたが、いろいろあってハーバード大学のケネディスクールに落ち着きました。

予算課補佐というエリートコースも経験し、企画室の上席企画官になりました。私は、その時はパリのOECD代表部勤務。OECD班長のSが「農林水産省にも篠原さんの他にも気概のある若者がいたんですね。永岡さん中心に勉強会をして、農政の基本方向をまとめようとしてるんです楽しくてしょうがありません。」と伝えてきました。

私がもっと昔に結成した「21世紀会」という若手の勉強会と似たような形でいろいろ議論していたのです。

ところが、それから1年するとS班長の報告が変わってしまいました。

「篠原さん、やっぱり農林水産省はダメですね。永岡さんどこか1階の片隅に飛ばされてしまいました。企画室長が気に入らなかったみたいで、後任に温厚篤実なYさんが来ました。」

あり得ることでした。

「篠原さん、やっぱり天安門事件はダメです。しみったれた役所では我慢をしておとなしくしていないと上に行けませんね。」

私にあまり激しく仕事をするなと忠告してくれました。

しかし、永岡議員なしに仕事は進まず、風雲急を告げていたガットウルグアイラウンドを担当するガット室長になり、獅子奮迅の活躍となりました。1993年秋、秘密会談がセットされ、私のいるパリにもやってきました。まさに彼の仕事振りは突出していました。

永岡議員は、米国留学したのに、若手が行く1等書記官で外国に勤務していませんでした。あまりに有能すぎていろいろな所から、ひっぱりだこで、外国になど出てられなかったのです。年次からいって、残るは私の後任くらいしかなくなっていました。

そこで、私は彼にパリから電話し、私の後に来ないかと話しました。しかし、答はNOでした。行きたいのは山々だが、世話になっている義父が余命幾ばくもないので、断念するとのことでした。米国留学等で少々経済的負担もしてもらったようです。義理堅い永岡議員ならではのことです。

そして、私が帰国し水産庁企画課長をしていた頃に、これまた重要ポストの一つである、牛乳乳製品課長になりました。ところが突然やめ、新進党から茨城県で衆議院選に立候補することになりました。なぜかと言うと、そこにまた先の企画室長が局長として着任し、どうも永岡課長の思い通りの改革が実現できなかったようです。潔くあっさりと辞表を提出しました。私は、永岡議員が辞職の挨拶に来た時に、思わず大声で怒ってしまいました。

「永岡、バカ。何を考えとるんだ。やめたほうがいい奴等がゴロゴロしているのに、お前の様な農林水産省にいてもらわなければならない奴が辞めてどうするんだ。」

帰った後、私はNo.2の部下に叱られました。

「課長、永岡さんが決意されたんですから、今更言っても始まらないですよ。頑張れと言ってやるほうがいいんじゃないですか。それから、辞めたほうがいい奴らとは我々のことですか。あんまりきつすぎますよ。」

「バカ、何言ってんだ。上のアホどものことだ。」

それから、彼はずっと苦戦し続けました。しばらくして、秘書がパンフレットを持って、農水省幹部の挨拶回りに来ました。部屋でお茶を出したところ、

「篠原さん、永岡は省内でどう評価されたんですか?」と聞いてきた。

私は、見識にすぐれた勉強家、英語もできる国際派で、人情味溢れるファイトマン等、絶賛しました。すると、

「永岡は、よく自分が辞めると挨拶に行ったら『辞めたほうがいい奴が辞めなくて、辞めてもらっては困るお前が何で辞めるんだ』と叱られたと笑って話すんですよ。」

と、私の叱責を話していることがわかりました。永岡議員は、私の叱責をきちんと激励と受け止めていたのです。

役所を辞めてから、国会議員になるまで7年半を要しました。私が辞めて50日でなったのをちょっと羨ましがっていましたが、同じ農林水産委員会に所属し、2人で喜んでおりました。「政治家になどならずに役人道を全うせよ」と若き永岡議員に迫った私も、同じ立場になりました。

民主党と自民党と立場は違いますが、日本の農業の行く末を案じ、日本の国をよくしようという気持ちは同じです。ゆっくり話したのは、農水省出身の国会議員の会合が最後になりました。第1議員会館でエレベーターや廊下で会う時はいつも笑顔で、声を掛け、一言二言言葉を交わしていました。

永岡議員が自民党総務会のメンバーの1人で、郵政民営化反対の急先鋒だったこと、そして執行部のあまりの脅しに辟易し、亀井派の谷津事務総長にご注進したことは新聞報道で知っていました。7月5日も投票後、憔悴し切っている姿が目に入りました。ただ、自民党の良識ある議員は多かれ少なかれ悩んでいましたし、それほど気にも留めませんでした。

そして、8月1日の一報です。

私は尊敬する1年先輩のSさんの追悼文集に『私がほめる人が亡くなったり、思わぬ退官となる』と書きました。私は役所の出来事をよく話すので、妻は私のほめ言葉をよく聞いています。今回は、妻は「あんなにほめていたから、また亡くなっちゃったじゃない」と私をまじめになじりました。私も私自身を叱りつけたくなりました。永岡議員は、いつの頃からか、私の「尊敬する後輩」になっていました。

つい数ヶ月前も、民主党のある会合で、永岡議員の対抗馬の方と名刺交換しました。その折も失礼ながら「永岡は私の尊敬する後輩です。あなたはとても当選できないでしょう。」と言ってしまいました。この話を妻にも伝えていましたので、当然8月1日にはこのこともなじられました。そして、「いい人をほめずに黙って口に出すな」ときつい一言も返ってきましたが、いままでほめてきた人は如何ともしようがありません。

8月2日、世田谷の自宅に弔問し、穏やかな顔、今にも熱弁を語り出しそうな顔を見てきました。農水委でS先輩に触れた折に、不覚にも涙を流してしまいましたので、それ以来人前での涙はこらえてることにしましたが、思わず泣き出したくなりました。

マスコミはやれ執行部が悪い、いや亀井派が裏切り者呼ばわりしたからだと喧しい限りです。ただ、郵政民営化騒動が原因であることは誰の目にも明らかです。

信念を貫き通して役人人生を送り、たちの悪い上司にはさっさと見切りをつけ辞職し、7年半の苦労の上に議席をものにした永岡議員だけに、こんなことぐらいはへっちゃらで切り抜けられたはずですが、どこかでネジが狂ってしまったのです。

私はよく分かります。永岡議員は信念を曲げざるを得なかったことを恥じ、悔やんでいたのです。平気で都合のいい方についたり、離れたりする政治家といえない政治家が多い中で、まれに見る政治家らしい政治家だったのです。だから、不本意な賛成投票に真剣に悩んでいたのです。永岡議員の人となりを知る人なら、すぐ察しがつきます。

解散総選挙を避けるために賛成といった本末転倒した反対議員の説得が行われていると報じられています。地元で郵政民営化反対と言い続けながら、次の選挙を心配し、目前のポストに目がくらみ、平然と翻意している人もいます。今、私は固唾を飲んで、参議院の採決を見守るしかありません。

私はできのよくない役所の先輩として自らの信念に基づいて、進むことを改めて強く決意しました。それが、永岡議員に対する何よりの供養になることを信じて。

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