大国ウクライナの変身

2005.11.7

<21年ぶりのキエフ>

1984年11月、農林水産省企画室時代そしてソ連の“鉄のカーテン”時代に日ソ農業技術交流で土壌学者の一行の一人としてキエフに3日滞在しました。めったにソ連の農業の現場など見れない時代で、私の出張も冬になりました。農作物を見せたくなかったからです。21年振りのキエフは、大きく変わっていました。

まず、ウクライナは独立し、ロシアを離れてEUやNATOに加盟しようとしています。言葉はウクライナ語が公用語になりました。ロシア語を使うと嫌な顔をされ、タラシェーク外相に「スパシーバ(ありがとう)」と言うと、「ジョークヨ」とウクライナ語に訂正させられました。

<ウクライナ独立の予知?>

私には細木数子さんではないですが(?)少々近未来を予測する能力があります。その一つがウクライナの独立です。

21年前、キエフ空港に降り立つと、空港には右と左に2つの文字で名前が書いてありました。キエフ大学の本もロシア語とウクライナ語でした。

土壌学者たちは、政府の悪口を平然と言ってのけました。モスクワの店には物がないのに、キエフは暖かく食料も豊富でした。同じ国なのにモスクワに物が行っていないのです。いや、意地悪して送ってなかったのです。そういえば、国連にもロシアとは別に加盟していました。私は外交のプロがどう見ていたかは知りませんが、いずれ独立すると直感しました。そして、1991年に早くも実現します。

相手が研究者から政治家に変わり、21年後第1副首相も外務前委員長も口を揃えて、民主化を自慢げに語り、EUの一員となり、ロシアと一線を画すと明言しました。

3日間退屈しながら泊まった丘の上のロシアホテルは、ウクライナホテルと名を変えて、大きなショッピングセンターもできていました。

<チェルノブイリの不幸>

2年後の1986年、チェルノブイリ原発事故が起こりました。世界第3位の核大国から核廃絶をさっさとやり遂げました。外相には、脱核ができたのだから、バイオマスエネルギーを活用するなどして、脱原発で世界の見本となるようけしかけました。

日本の円借款で空港をつくり、原発の被爆でもいろいろ援助を受けるウクライナは、日本に親近感を持ち、頼りにしていることがうかがえました。

<小泉首相の「殺されても」発言の出元>

帰任する天江大使から聞いたこぼれ話を一つ。

7月20日ユーシチェンコ大統領が来日、郵政民営化法が参議院で否決されそうな中、会談が行われました。そこで小泉総理はオレンジ革命を絶賛したそうです。「殺されそうになったそうだが…」といった会話が続き「お互いに天(神)が味方しているはずだ」と励ましあったそうです。それから数日後「殺されてもいいから郵政民営化…」という発言が飛び出します。

小泉総理がいくらワンフレーズが得意でも、また、いくら信長が好きでも戦国時代ではあるまいし、日本の政治には「殺す」などという言葉は無縁です。もられた毒の痕が顔に残る大統領と会い、一国を預かるもの同士、影響を受けたことは間違いありません。旧ソ連やLDC(発展途上国)には現実に「政治家を殺す」という用語が出てくるのです。

今回の総選挙の自民党の大勝利は、全て小泉総理の決意と国民の胸に直接響くいつもの短い言葉が伝わったことにあります。

その中でも、最大のヒットは、刺客でもなんでもなく、「殺されても郵政改革をやり抜く」という言葉にあると思えてなりません。そのヒントは、この遠い国ウクライナにあったのです。いつか本人に確認してみようと思っています。

戻 る