前原代表に10年後の再起を期す

<高坂正尭京大教授の薫陶を受けた仲間>

私は人の好き嫌いは、ほとんどありません。「来る者拒まず」ですし、こちらからベタベタしていくこともありません。前原代表は、その実直でまじめな性格からして、私の趣味に入る人間です。ですから、当然後押ししてきました。京大の先輩後輩の関係とともに安全保障問題に取り組み、かつ故・高坂正尭先生の弟子という共通点があったからです。仙谷由人元政調会長といった仲介者もおり、言ってみれば、馬があう政治的仲間です。

9月4日京都からわざわざ応援に駆けつけてくれた前原代表を前に私は、「次の次の次の・・・代表と目されている、民主党の若きホープ前原誠司防衛・安全保障担当大臣です」と紹介しました。長崎屋(長野市高田)の前で、長崎屋の買い物客に向かっての街宣でした。従って、通称イケメンの前原さんにはもったいない場所でした。私の前回選挙で遊説隊長をやってくれるA君は、なぜかしら人の顔の見えないここで街宣するのです。

<プロの選挙応援>

そもそもなぜ来てくれたか。

政治家として先輩の前原さん(5期生)は、党主催の我々後輩に選挙のノウハウを講義してくれました。例えば7万票で当選できるのに7万5000人の名簿を作り、専属を置いて整理していること。50校の小学校区ごとに出前的にミニ集会を開いていること。常に街宣の場所を決めていること等です。「長野など街宣するほど人の集まる場所もない」という私に「それではダメだ。私が教えてやる」と先輩風を吹かしたことがありました。そして、急な選挙でいつになく本人もかなり追い詰められているという中で、私に選挙のノウハウを直接教えに来てくれ、そして応援に来てくれたのです。

街宣車に乗ってから、マイクは1度も離すことなく、すっと1人で喋り続けました。生粋の政治家であることがわかりました。「ほら、篠原さん、右手にお母さんがおられます。マニフェストを届けてください」と指示し、私は暑い中走らされ、足をくじいてしまいました。当時はウグイス嬢の誰1人として知りませんでした。事務所に寄ってもらい紹介して慌しい長野遊説を終えました。皆に爽やかな印象を残して去りました。

<若き投手の出現>

ところが、9月17日突然党首になってしまいました。

私は正直言ってまずいと思いました。こんな時に火中の栗を拾うにはもったいない人だと思ったからです。前原さんは、民主党が上り調子の時、政権奪取の時に、党首として先頭に立つ人と思っていたのです。例えば、「山???」ですが、岡田さんが幹事長として菅さんを支え切れずに辞職した後に、党首になりましたが、あの時こそ、つまり177人の衆議院議員を抱え、政権奪取目前の党首こそ彼にふさわしいのです。

昨年の党首選時、菅さんの参謀の一人が私に意見を聞いてきました。「絶対に出るべきではない」が私の返事でその参謀も同意見なのに、出てしまいました。前原さんの参謀は意見を聞いてきませんでした。私はこんな時は、ベテランがいいと思い地元紙の信濃毎日新聞には「小沢さんで・・・」という私のコメントが載り、有権者の多くは私が小沢シンパと思い違っています(それほど「信毎」の威力が大きいのです)。

私は民主党政権交代を最優先する、いわば羽田チルドレンです。その意味では政権交代が実現し、日本の政治がダイナミックになり国民が幸せになれば、誰が党首でもかまわないと言うのが、私の基本姿勢です。

<前原さんへの幻の(?)諫言状>

今回の一連の動きの中で、私は前原代表の危うさを感じましたので、11月上旬の外務委員会のウクライナ・キルギス調査視察中に前原代表への注意書き(いわば諫言状)をまとめましたが、秘書のアドバイスで突きつけるのをやめました。今もそれが手許に残っています。

予想したとおり、徐々に前原体制が変な方向に行き始めました。私は気が気でなりませんでした。しかし、前原執行部体制は11月上旬の諫言状にむしろ遠ざけるべき、と書いた、若手の松下政経塾の仲間や京都の仲間が固めており、とても口を出せる雰囲気ではありませんでした。

<遅かりしアドバイス>

1月下旬、民主党から私にBSE調査団としての突然のアメリカ出張が命ぜられ、2月2日に前原代表、鳩山幹事長、松本政調会長に帰国報告しました。久方ぶりの個人的会談でした。いつも自信たっぷりの前原代表が疲れていること、悩んでいることが感じられました。私は翌日、時間をとり、BSEについての総理質問の案を届け、ついで党運営等について率直に意見を述べました。

その後、前原代表から呼び出しがあったりして、数回話しをしました。ここは機微に触れるので、省略しますが、その後2月15日のBSE集中審議の翌日、ライブドア集中審議で永田さんから堀江メールが持ち出され、グチャグチャになって行きました。私にとっては悲しい限りでした。

その後のことは皆様が承知のとおりです。

そして、実現したのが、3月26日の福島県喜多方市の農業視察です。大建工業という建設会社の農業参入(タラの芽とトマト)、学校給食への地産地消、ラーメンの原料小麦の生産復活への取り組みと、今をときめく渡部恒三国体委員長ともども見て回りました。帰京の新幹線の中、再び率直に語り合いました。これまた機微に触れますので、全容は明かせませんが、私が悩める前原代表を励ましたことだけは事実です。

<悲しい突然の辞任>

3月31日朝7時、久しぶりに帰った我が家から朝の環境部門会議に出かけました。妻に「代表辞任になるかもしれない」と言って出ました。あってほしくないと思いつつも。

前原誠司はまだ43歳。天才田中角栄すら54歳で首相です。

将来ある前原さんは、大きな学習をしたはずです。もうじたばたせず、10年後の総理を目指し頑張れとエールを送ることにしています。

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