2010.04.09

政治

問題だらけの内閣人事の一元化 -10.04.09-

<目指すべきはプロの官僚の育成>
 政府提出の国家公務員法等改正案と自民・みんなの党共同の対案が6日の衆議院本会議で審議入りした。与野党とも政治主導を前向きに出し、改革姿勢を競い合っている。私は、天下り禁止、幹部の降格のルール化等について両案がいろいろ工夫をこらしているが、これらの改革案には異論はない。しかし、両法案とも内閣人事局が幹部クラスの適格性を審査し、A省からB省へ柔軟に人事異動させんと規定していることは大反対である。政府全体の人事部局などまさに無用の長物であり、百害あって一利なしである。
 一番の理由は、「事務次官の廃止により霞ヶ関を専門家集団に(10.03.05)」のブログで述べたとおり、霞ヶ関のプロ育成から大きく逸脱し、霞ヶ関の官僚を調整型ばかりの小役人集団の巣窟にしてしまうおそれがあるからである。
 我々が霞ヶ関の人事を改善しなければならないのは、プロの育成に向けてであり、逆向きになっては絶対にならない。しかるに、本法案はまさに逆向きであり、霞ヶ関の優れた官僚制度の根幹を揺るがすことになりかねない。

<縦割りを排するのは三役の仕事>
 内閣人事局に幹部をプールして一元化するのは、何よりも縦割り行政を打破するためといわれる。官僚に「我が省」と言ってはいけない、省益ではなく、国益を優先せよと立派なことが言われる。そのとおりである。しかし、私はこの言葉は何よりも大臣、副大臣、政務官にこそ突付けたい。つまり、政務三役こそ縦割りを排して仕事をすればよいのだ。官僚・公務員を政治化してはならない、政治は政治家はやるべきなのだ。

<官僚に任せていい仕事を政務三役がして政治主導か?>
 現実は、今、政務三役がすっかり各省の官僚に取り込まれ、政治家が行政官化し、政務官が「事務官」と揶揄されるに至っている。例えば、さる政策会議で、白書の説明を政務官がしていたが、こんなことは自民党政権時代は与党に対しても担当課長がしていたことである。政治主導とは、政治家が重要な政策決定を行い、官僚をうまく使いこなして、政策を実行することにあるのにどうも勘違いが多いようだ。脱官僚依存は、政治家が官僚の仕事を代わりにやることではない。それを、政治主導のために内閣人事局を作り、人事だけを恣意的に行おうとしているのは本末転倒である。

<国籍と同じく母なる省が必要>
 日本の役所の組織の欠陥はプロが少ないことである。霞ヶ関の官僚が政策の企画立案から、政治的な政策調整者と変化し、政治的な意思決定に関与するようになっている。それが目に余るが故に改革しようとしているのに今回の改正案ではいわゆる「官僚内閣製」を助長してしまうことになる。
国家公務員制度を改善するとしたら、むしろ「プロ育成」のために体制に改善していかなければならない。人に本国、母国があり、国籍があるとおり、官僚には母なる省が必要であり、それを前提に人材を育成すべきであろう。
 問題とされる縦割り意識の打破は、むしろいろいろな省庁や部署への出向で是正できる。例えば、幹部とならんとする者にたいして、他省への出向、地方支局部局、地方自治体勤務、外国勤務、そして極めつけはその局・庁に最低15年は勤務すること等を義務付けるのが先決である。よくしたことに、2回の他省庁の出向等の人事はもう既に現実に行なわれつつある。

<論外な内閣一括採用>
 また、縦割り意識を持たせないため、I種は内閣一括採用で人事を一元化すべきと、まことしやかに言われるが、全く論外な話である。三菱グループで一括採用して、銀行、重工、商事、・・と振り分けろというのだろうか。誰しも農政をしたい、福祉行政をしたいといった希望を持ってその仕事のできる農林水産省なり、厚生労働省を選ぶ。
 国家国民のために必死で働こうという志気は、まさに何をしたいかということに存在する。そうした気持ち持たずに、ただ日本国の官僚たれというのは行き過ぎも甚だしい。もしそれでいいという人がいたら、多分官僚として偉くなればそれでいいという人に違いない。しかし、そうした人は省庁も国民もむしろ必要としていない。

<民間企業はプロばかり?>
 民間企業の人事は、人事、労務、経理、営業等に分けられ、その範囲内で人材が育成されていく。そして、商社でみると、水産、鉄鋼、繊維・・と物別に分かれ一生その「物」の専門家として仕事をし続けるのではないか。そのため、自分の得意分野を極めようとするし、また、自分の専門分野がなければ、生き残れない。そのうちの5~6年間のうちの気の利いた1人が社長となるのが普通である。
それをなぜ役所は分野を問わない幹部が必要なのだろうか。もちろん、調整能力も管理能力も必要であるが、そんなことは政治家がやればいいことであり、官僚はあくまでその道のプロこそ必要なのだ。
 予想できることは、事務官ばかりがリストに名を連ね、その道の本当のプロである技官が冷遇されてしまうことである。
 最大限妥協するとして、適格性審査なりリストアップは民間からの登用には使えるかもしれないだけだ。霞ヶ関の中央官庁の官僚の人事は、基本的に各省庁の大臣に任せるべきである。

<米英型の真似することなかれ>
 日本の国家公務員制度改革は、1980年代に吹き荒れた、米英型改革の二番煎じにすぎない。サッチャー政権下が典型であるが、民営化、規制緩和、予算の削減、税制改革等と同時に公務員改革が行なわれた。行政の複雑化により公務員の役割が増大し、行政国家化が進む中で、公務員を政治的に統制する必要性が増大した。しかし、ヨーロッパ大陸諸国は、政治と官僚の対立はない。フランスは官僚がプロとして強力なエリート集団を形成し、国政を担っている。
 ここに、公務員の中立性を重視し、政治と行政を分けるか、政治と行政を一体不可分とするかという、中立性重視か応答性重視かという基本問題が提起される。そして日本は今日、知ってか知らずか後者に舵を切ろうとしている。
 公務員についていえば、応答性(政治性)と専門性中立性は相容れない大トレードオフの関係にある。

<政治家の恣意的人事の温床>
 政府案も野党案も政府・内閣との一体性を確保した人事を謳い文句の一つにしている。政と官の付き合い方を問題視し、イギリスでは接触を禁じているというのに、日本は逆方向に進もうとしている。政治家が官僚を分身として政治的調整までさせるというのは、まさに政治家の自信のなさの表れである。官僚は専門性に基づく正確な分析や助言にとどめるべきである。
 適格性審査にパスし、政治家に気に入られるために猟官運動が横行することは目に見えている。政治家の恣意的人事が行われ、国家公務員の中立性・公正性が損なわれていき、国家公務員が政治化してしまう。別稿に譲るが、民主党政権が既に疑問符だらけの政治主導人事をやっており、波乱の兆候がみられるのが気がかりでならない。

<適格性審査は誰がするのか>
 適格性審査は、一体誰が何をどのような基準で査定するのか全く不可解である。プロ野球ならホームラン何本、奪三振数何個ですぐ数値化できる。それを官僚の仕事ぶりをどうやって客観的に評価するのか。客観的な能力主義・実績主義というのは理想ではあるが、そこに政治が介入してはならない。
政治家の目のほうが確かなことはままあり、最終の決定は任されるべきだが、その前段階の評価なりは官僚の世界に任せるべきではなかろうか。ただそのためには大臣等政務三役も従来の1年前後ではなく2~3年はその省を担当しなければならない。
 予算はすぐに変えられるが、制度は簡単に変えられないし、組織機構やシステムはもっと変えにくい。政と官の係わりを見直していくことは、鳩山政権の大事な公約の一つであるからこそ、もっと慎重に議論していくべきであり、今回のような拙速な改革はしてはならない。

投稿者: しのはら孝

日時: 2010年4月 9日 17:56