2010.06.14

政治

-やっと菅首相が実現- 10.6.7

<久方振りの叩き上げ庶民宰相>
 鳩山首相の突然の辞任により菅首相がやっと実現した。最後に大仕事をした鳩山首相については、別途書くことにして、ひとまず菅首相の実現を喜びたい。
 ずっと2世なり、総理の孫とか子とかが首相になっており、政治家直系以外では、鈴木善幸首相以来のいわゆる叩き上げ首相なのだ。田中角栄さんも同じだが、全く性格が異なる。
 同級生の一人が団塊の世代として菅首相の誕生を歓迎したいとメールを寄せてくれた。いわゆる全共闘世代でもあり、少なからず学生運動にかかわった人たちは何となく菅さんに魅かれるものがあるのかもしれない。
 私は学生時代には学生運動に寧ろ反感を持っていた方だし、今や菅さんが余りにも身近な存在になってしまったのでそのような感じはない。政治家としてしか見えなくなっている。

<初の菅選対>
 私が政界に入ってからは、菅さんと深くかかわりを持ち、一緒に政権交代の目標に向かってきたので、菅首相の誕生は嬉しくてたまらない。はじめて、菅選対とやらに出向き拙い電話で投票依頼をした。長野1区の有権者には何ともないが、同僚議員にはどうもテレ臭くてよく言えなかったが、「菅さんのファンだからお願いしている」と言って、隣りで電話を掛けている同僚議員から笑われてしまった。私の菅さんへの思いはそんなものである。他に言いようがない。

<田舎の兄ちゃん>
 菅さんは都会のませた政治青年なんかではなく、山口県宇部市で生まれ育った田舎の「兄ちゃん」で、高校2年の時に、父親の転勤ではじめて東京に出てきたにすぎない。私の育ちと大して変わらないと思っている。
 最初の社会運動は農地にかかわるもので、それに対する本(「新・都市土地論」1988年)まで書いている。(その後の本も目を通してみたが、国会質問の延長や、あまり論理的でないご高説が多くて印象に残らない。ただ、この本はしっかりしている。)

<最初から総理を目指す>
 市川房江さんの選挙を手伝ってからのサクセスストーリーは大体の皆さんがご存知のことと思う。中曽根康弘さんが、最初から総理を目指してノートに何をするか書いたり、自分が総理ならどうするか、とか考えていたそうだが、全く違う立場から菅さんもずっと総理を目指していたという。私はその政策を首相として思い切り実現して欲しいと思っているし、しっかり支援したいと思っている。

<はじめて会った長野駅前演説>
 私は長い農林水産省勤務の間に、いわゆる農林族の先生方とは与野党を問わず数多く知り合いになった。それが縁で今、国会議員になっているが、全く違う分野で活動していた菅さんとは役人時代はただの一言も口を利いたことがなかった。
はじめて話したのが03年11月6日木曜日、長野駅前の街頭演説の時である。私はよく知らなかったが、対立候補と接戦しており、そうした選挙区だけに代表が応援にいくことになっており、新潟の2人の女性新人候補(西村智奈美、菊田真紀子)を応援した後、チャーターしたヘリコプターで松本入りし、下条みつさんの応援をした後、特急しなので長野入りしてくれたのだ。私はわずか40数日前まで役人である。演説などには全く縁がなかった。
 こぶしを振り上げて大声で話す菅代表の姿をポカーンと眺めていたことを覚えている。アジ演説の見本である。これでのし上がってきたのかと感心して見ていた。私は、菅さんのような話し方は今もできないでいる。

<農業再生プランの作成>
 その後、年が明けて04年1月13日の党大会で、菅代表は突然、農業再生プランを作って7月の参院選を戦うと宣言した。そのお鉢が回ってきて、鹿野道彦NC農林水産大臣の下、その作成に全力をあげた。それと同時に、菅さんが農山漁村行脚しだし、1月17日の秋田県大潟村視察に同行した。その後、南ドイツのシュバルツバルト(黒い森)視察にも一緒に行き、旅の道すがら、しょっちゅう話し込み、人間菅直人と触れ合うことになった。私は役所時代、よく上司に叱られたが、イラ菅と呼ばれる菅さんなのに、私にはただの一度もそうした態度を示したことがない。うまが合ったのかもしれない。

<雨天の友>
 途中は省くが、菅さんは例の保険料の未納で代表の座を退き、無役となってしまった。私は、この時、社会保険庁の不始末なり、役所のミスが原因であり、絶対辞める必要はない、とメモを渡したりして危機を救わんとしたが、少々ずれてうまくいかなかった。
 民主党では代表が自動的に○○本部長に就くことになっており、岡田克也農林漁業再生運動本部長だったが、岡田さんが不熱心なので、私が岡田さんに直談判して菅さんになってもらった。お遍路さんに行ったりしてすることがなかった菅さんに農山漁村を回りやすくしたつもりである。これが07年の1人区での勝利に直結していることはあまり知られていない。
 その一環で、菅さんが現場も知りもしないで、好い例としてあげていた栄村の田直し、道直し、下駄履きヘルパーを見せるべく、秋山郷の民宿ひだまり荘の一泊視察をセットした。失意の底にあった菅さんの、いわば雨天の友であった。菅さんに菅グループの勉強会の参加を強く勧められ、いつしか「国のかたち研究会」の常連になっていた。

<預言的中の代表代行>
 無類の政策マンだが、政界に長くいるにしては政局絡みではまずい対応が目立った。その後もやたらと、代表選には出たがった。07年4月のポスト前原の小沢さんとの一騎討ちの時は、「こんな難局は小沢さんに任せて恭順の意を示し、03年民・由合併とは逆に小沢代表、菅代表代行で行くのが良い」と強く進言した。しかし、私の言うことには耳を傾けず、また出馬しまた負けて代表代行になった。しばらくして、「代表代行なんて篠原さんしか言わなかったが、僕には丁度いいポストだよ」と代表代行を楽しんでいた。

<組織人としての経験不足が心配>
 その後は小沢・鳩山・菅の3人のトロイカ体制が続き、今を迎えた。大変な時の首相就任だが、さんざん辛酸をなめてきた菅さんなら何とかやってくれるだろうと思う。ただ、組織人として働いたことがないせいか、人事なり、人の動かし方は下手である。弁舌は知られているが、アジ演説や国会論議と政権与党としての政策の実行は全く異なる。そのところがどうも分っていないのは、民主党のいわゆる論客全員の共通する欠点である。

<次期衆院選は菅首相で迎えたい>
 しかし、政策には明るく瞬発力も抜群である。菅さんは口癖のように「鳩山さんには4年間やって欲しい」と言っていたが、その言葉にそのまま菅さんにもあてはまる。組閣、党役員人事で躓かなければというのが今の心境であるが、長期的には次の衆院選は菅首相で迎えたいというのが私の切なる願いである。

投稿者: しのはら孝

日時: 2010年6月14日 17:47