2010.06.22

政治

-農林水産副大臣拝命- 10.06.21

6月9日、私は農林水産副大臣を拝命した。午後4時30分頃、着慣れないモーニングを着て認証式も済ませた。身の引き締まる思いである。

〈慌ただしい宮崎入り〉
 その後すぐ、農林水産省に戻り、モーニングから平服に着替え、省内の口蹄疫対策本部会合、そして官邸の第3回口蹄疫対策本部会合に出席。その直前に宮崎の現地本部の副本部長小川勝也首相補佐官(参、比例区、3期)から翌10日朝1番に宮崎入りすべしという通告を受けていた。何とも急な話で、それこそドタバタの着任であった。小川さんの言うとおりに宮崎入りし、そのまま宮崎に居続けており、私が副大臣になってから農林水産省にいたのは1時間足らずという有様である。

〈疲弊した農林水産業の立て直し〉
未曾有の「国家的危機」(菅首相)である口蹄疫の問題は別稿に譲るとして、まず副大臣拝命の初心を述べておきたい。
 正直言って骨の折れる難問ばかり山積しており、今この時点で農林水産省入りすることに胸を踊らせているわけではない。日本の農林水産業、農山漁村は今は青息吐息である。今手を打たなければ、日本の地方経済も、食料安全保障も成り立たず、地域社会が崩壊してしまう。もっと露骨な具体的なことで言えば、私が2004年以来手がけてきた農業者戸別所得補償が相当歪んだ形で実施されんとしており、これを正さないと、農村は更に混乱してしまう。現在の政策はモデル事業と銘打っており、2011年度の本格実施に向けて新しく変えられるが、更に変なふうにされたらたまらない。立案者の1人として敢えて「火中の栗を拾う」決意をした次第である。この修正は、こうした書き物でなく2011年度に向けた本格実施の政策立案の過程で明らかにしたい。

〈初の菅人事〉
 菅首相による初人事は、ポロポロと予測が新聞に出回り、あまり好ましいとは思わなかったが、首相自ら副大臣、政務官人事をしていたことは二重丸である。初の民主党政権である鳩山内閣では、副大臣、政務官は各大臣により指名され、内閣で協議して決められていた。政務三役が気心が知れた方が良いというのが理由である。今回の国家公務員制度改革で、部長、審議官以上の600人の候補者リストを内閣で作成し、官僚トップの人事も内閣が関与し、睨みをきかすというのに、肝心の副大臣・政務官を各大臣に任すというのは矛盾も甚だしい。 

〈なぜか遅れた農林水産大臣人事〉
私は、鳩山政権下でのような大臣任せの人事は1回限りとし、副大臣、政務官の人事は首相自らしっかりとやるべしというペーパーを作成し、それなりの関係者に配布していた。今回は、私の提案が効いたのか少なくとも私には菅首相からの直々の電話があった。
赤松さんは、この機会に農林水産大臣の辞任を申し出ており、最も早く後任が決められてもよかったが、現実には他の閣僚人事と比べて逆に一番遅くなっている。その辺の事情は私の関知することではない。私は副大臣としての職務を全力を尽くして全うするしかない。

〈捨て身の政治活動〉
1996年、今から14年前の秋、羽田孜元首相から政界入りの声をかけられてから長い歳月がたった。民主党の政権獲りに協力してくれ、農政は君に任す、絶対当選させてやる等々いろいろ誘惑の言葉をかけられたが「政治家になれば君が本に書いている理想の政策を、10倍、100倍の力で実現できる」という一言も耳に残っている。今は農業者戸別所得補償がその典型と納得している。
私は55歳で政治家の仲間入りをした。ある同僚に言わせると、渡辺恒三さんに次いで捨て身で何でも自由に言える立場にあり、現にそうしているという。つまり、後のことは考えずに思い切り発言し、政治活動ができるということである。

〈菅内閣の一員として〉
役人生活30年、十分に仕事をしたと思っている。その後は、私にとっては余業であるが、16万人もの有権者に私の名前を書いていただき、日本の政治を託されたのである。今までもいつも政治生命を賭けて発言、行動、発信してきている。副大臣として内閣入りしたため、有権者ばかりでなく菅内閣の一員としての大事な責任もあり、今後は少しセーブしなければならないが、基本的には私のペースを崩さないで全力を尽くすつもりである。
メルマガ・ブログをお読みいただいている皆様の、今後更なるご支援、ご助言をお願いする次第である。

投稿者: しのはら孝

日時: 2010年6月22日 23:47