2011.07.02

環境

キエフから児童・生徒が消えた1986年5月  クリミア保養地への学童疎開 - 2011.7.2 -

(4月下旬のチェルノブイリ出張の時に気になったことがあったが、本業を優先してきて報告が遅れてしまった。しかし、大事なことなので遅ればせながら今回報告する。)

<3回目のキエフ>
 キエフは正直なところ、日本とは縁遠い都市である。それでいながら私は今回で3度目の訪問となった。最初は1984年「鉄のカーテン」のソ連時代、行政官などとても入れてもらえなかった頃で、日ソ農業技術交流に紛れ込み、偽の土壌学者として訪れている。留学と赴任を除き3回訪問したのはワシントンDC以外になく、キエフは私にとって偶然馴染みの深い都市となった。
 今回は、通訳にオリガ・ホメンコさんというお喋りで活発な女性がついてくれた。文科省の給費留学生として東大で学び博士号も取得している才女だった。土壌関係の科学者会議では英語で発表していたので世話にならなかったが、ナロジチの菜の花プロジェクト視察はずっと付きっきりで助けてもらった。ウクライナは広く、目的地に行くのに時間がかかる。その車中ずっと喋りどおしだった。

<オリガさんの1986年4月26日>
 「25年前の事故の時、オリガさんはどこで何をしていたの」という質問に対する答は、私もあっと驚くものだった。無駄と思われるお喋りも役に立つことがあるのだ。
 何か大変なことがチェルノブイリで起こったらしい、という噂がパーッと広まった。近所の医者は危険を察知し、息子を遠くの知人に預けるべく空港に向かったが、キエフ脱出を図ろうとする同じような人ばかりでチケットは買えず、列車も満席。やむなく車を1日中走らせて別の都市に行き、そこで飛行機に乗せグルジアの友人のところに送り込んだ。ところがオリガさんは、父は出版社の社長、母は国語の先生であり、父の方針で抜け駆けは自制した。

<突然のクリミア保養地行き>
 すると、5月中旬、突然入学試験を前にした最高学年(日本の中学3年?)を除き、全小・中学生がバスに乗せられ、チェルノブイリから少しでも遠く離れた所(オリガさんの場合はクリミア半島の保養地)に送り込まれた。学校の門の前にバスが止まり、次々と乗り込まされ、何が何だかわからなかった。聞きつけた母親たちが集まり、泣き叫んでいた。子供たちもどこに連れて行かれるのかさっぱり分からず、不安な気持ちで旅立った。
 クリミアの保養地に着いた途端、着ている服は脱がされ、取り上げられた。オリガさんは、その服の柄を今も鮮明に覚えている。いつ帰れるのかもわからず、回りからは被爆者と言われ嫌な思いもした。その一方で、親元から離れ自立しなければならないので、洗濯をし合うなどクラス仲間とは絆が深まり、団結心が培われた。
 チェルノブイリ原発の爆発は10日間で一応おさまり、放射能漏れも少なくなったのだろう。3ヶ月後夏休みも終わりになる頃にはキエフに戻れた。

<誰も知らないキエフの大量学童疎開>
 それなりにチェルノブイリものを読んできだ私にとっても、子供が120km離れたキエフから大脱出した話は初耳だった。私は、すぐさまこの件を大使館や日本の関係者に電話で伝えた。私の出張目的は農地汚染による出荷制限や作付け制限、土壌汚染の除去等にチェルノブイリの経験を教えてもらうことだが、その前に子供の優先避難という大問題に出くわしたのだ。そして驚いたことに、私が電話で伝えた関係者の誰一人としてこの計画的学童疎開の事実を知らなかった。
 ウクライナ大使館は早速事実を調べてくれた。旧ソ連時代のことで資料はそれほど残っていないようだが、大使館の現地採用の人たちも皆大量学童疎開のことを知っており、オリガさんの話を補強してくれた。
 オリガさんの説明どおり、4月26日から1ヶ月の5月中旬にはキエフから子供がいなくなっている。幼児はどうしたかについては疑問が湧くが、多分避難させたくても母親も一緒となると施設の問題でできなかったのだろう。幼児は屋内退避できるが、元気盛りの小中学生は外に出るから無理と考えたのかもしれない。また小学校に上がる前の幼児は集団生活ができないため、仕方なく家に置かれたのかもしれない。

<ソ連もウクライナも子供の救出に全力>
 キエフの当時の放射能量は、ソ連政府が秘密にしており、分からないだろうというのがオリガ解説。秘密にし大袈裟にしたくなかったソ連政府とウクライナ共和国の間には、相当凄まじいやりとりが行われたことは想像に難しくない。しかし、子供を放射能汚染から守らなければならないというウクライナ側が、鉄の意志で大決行したのである。これは正確ではないが、オリガさんはウクライナの1人の女性幹部が必死で動いたという。
 農業や土壌について事故対応のことを聞いても、「大体1991年からは・・・」という答えしか返ってこない。つまり1986年はまだ旧ソ連体制下であり、ゴルバチョフの改革の時代と重なり、かつ崩壊寸前の状態でろくな対応策が講じられなかったのが伝わってくる。そうした中で、毅然と子供を救う行動に出たウクライナ共和国の英断、そしてそれを許したソ連邦幹部は危機管理の何たるかを知っていたのである。

<日本の農村が支えた戦争中の学童疎開>
 長野県は戦争中に学童疎開を積極的に受け入れており、関係者の話をたくさん聞いたことがある。
日本の学童疎開は、連合国軍により本土空襲が始まらんとする1944年8月4日に開始された。戦争中の学童疎開は、子供はやはり何としても救わなければと考えた故のこと。大都会の子供は村の有志の家やお寺に住みながら、数ヶ月から数年農村に助けて貰ったのだ。愚かな戦争に走った大日本帝国も、子供を守ることにかけては知恵を絞り、大胆な集団学童疎開を断行した。その数は40万人と推計され、これにより戦火を逃れ、大半は疎開先で終戦の日を迎えた。

<ウクライナの原発学童疎開と日本の子供の受け入れ申し出>
 福島原発のニュースが流れると、ウクライナでは日本大使館に子供の避難を受け入れるという電話が殺到したという。電話を受けた大使館員は、なぜそういう申し出が多いのか理由がわからなかった。キエフからの学童疎開という原体験があり、身につまされてこう申し出ていたのである。ウクライナで見る世界地図上の日本は、小さな点に毛が生えたくらいの広さで右端にある。福島原発事故で全国が汚染され、日本から子供を脱出させなければならないのではと、誤解するのも無理はない。
 日本は広島、長崎のことがあり、チェルノブイリ支援に相当肩入れしてきたが、そのことを何よりもウクライナ国民が承知していた。そして今度は同じようにお返ししようとしてくれているのだ。
日本とウクライナ、学童疎開の記憶には67年前と25年前の差があり、どうも日本では忘れ去られウクライナでは鮮明に残っているようだ。

投稿者: しのはら孝

日時: 2011年7月 2日 16:23