2011.09.22

政治

菅総理ごくろう様 -消費税発言も脱原発も一貫性あり- 11.9.22

私は、鹿野さんを総理にすべく、8月下旬の2週間いろいろ活動してきた。多分、皆さんの興味もそこにあると思うが、やはり先に菅内閣の私なりの総括を先にしなければならない。
私が政治家になったのも偶然であるが、菅総理と親しくなったのも偶然である。私は、菅さんには総理になってもらい、菅さんのやりたいことをやって欲しいと思って活動してきた。その理由は、先のブログ、04年1月13日の菅代表挨拶の一致と乖離(菅代表演説と菅総理の政策の一致と乖離-11.7.16-)でもって説明したので、詳細は省く。

<全く面識のなかった菅代表>
私は、政界入り前には菅さんと口をきいたことすらなかった。03年の11月5日(木)夕方5時50分。夕暮れ時の長野駅に応援にきてくれた時が、面と向かって話をした最初である。選挙期間中、「篠原さんは菅さんをよく知っているのですか?」と数か所で聞かれたことがある。私は、全く知らなかったが、党首討論で、民主党には農政がないと攻撃された際に、「長野1区で篠原孝さんという人が出てくれており、彼が民主党の農政を担ってくれる」と答えていたのだそうだ。羽田さんを通じて、そういったことが菅さんにも伝わっていたのだ。

<農山漁村視察随行>
その後、菅代表の農山漁村現場視察への随行で親しくなっていった。04年1月15日、民主党の事務局から突然電話がかかり、17日(土)の大潟村行きに同行して欲しいとの要請を受けた。それ以降、度々地方行脚に同行し、最後はドイツの「黒い森」(シュバルツバルト)出張まで同行した。

<僭越な注文・アドバイス>
04年1月13日の代表挨拶に胸を打たれ、これ以来私は菅さんを是非総理にと強く思うようになった。そこで、その目的達成のため、菅総理の節目節目のいろいろな出来事に私が余計なアドバイスをしてきている。例えば、04年5月の上旬、保険料未納の件で代表を退任したが、絶対退任する必要はないということもメモ入れした。しかし、あっさりやめてしまった。これも長いブログ(年金問題と民主党、そして私の見解-04.6.3-)に書いたので読んでいただくと分かる。
人生の先輩、政治家としても大先輩の菅さんに失礼かと思ったが、政局対応の拙さをみていられなかったからだ。

<農林漁業再生運動本部長復帰>
その後、菅さんは無役だった。そして、何々本部長はすべて岡田代表が兼任していた。しかし、岡田代表は、私がせっかくセットした「農業再生プラン」についての論説委員との懇親会に出ず、農政に熱心ではなかったので、私が岡田さんに直談判して農林漁業再生運動本部長に復帰してもらった。これで菅さんは、あちこちの農山漁村回りができるようになった。
政界は現金であり、菅さんの復活の芽はないのではないかということで、多分同僚議員が冷たくなっていた頃である。私は、菅さんの復活を願っていたし、できると確信していた。
栄村の田直し、道直しといった安上がりな公共事業は民主党の望ましい方向と一致したが、菅さんは現場を知らないというので、05年秋には、一泊二日で栄村に案内した。その後、菅さんの要請に応えて菅グループの勉強会にも出席するようにした。従って、菅総理の実現は私にとっては非常に喜ばしいことであった。(ブログ:やっと菅首相が実現-10.6.7-)
非常に生意気なことではあったが、私は30年間農林水産省にいて、農林水産関係議員を中心に嫌というほど付き合い、その延長で政権運営等を傍目八目で見続けてきたので、その知識・経験をもとに、危うい(?)菅さんの政局対応について、いろいろな意見を述べ続けた。

<消費税発言は菅さんの真面目さの表われ>
あれこれ書いていると尽きないが、菅さんの消費税発言を弁護しておかなければならない。
明らかに菅さんのあの一言により参議院選挙で大敗した。ねじれ国会による民主政権の混乱の原因を作ったことについては弁明の余地はない。しかし、新聞報道されているような思いつきで発言したのではない。菅さんはとにかく真面目なのだ。思い立ったら言ったりやったりしないとならない性格なのだ。
 
<菅財務相の突然の電話>
菅さんは財政問題等に詳しいわけではなかった。それが政権交代後、財務相兼副総理になった。その時、私は財務金融委員会筆頭理事。そこでもまたいろいろ情報交換しなければならない立場になった。
菅さんが4月中旬、G7財務大臣・中央銀行総裁会議、G20財務大臣・中央銀行総裁会議で外遊して帰ってきた日、財政を健全化する法律を出したいという相談があった。私は、今頃そんなものを出して、通る見込みがないこと、郵政関連法案も残っており、参議院選挙もあるので、審議日程がとれないと否定的に答えた。それでも出したいというので、私は、前原さんのように何も根回しもせずに、八ッ場ダム中止、JALの再建方針等を持ち出してもだめなこと、国会日程に大きく関わることなので、まず山岡賢次国対委員長に相談すべきこと等を伝えた。偶然長野に来ていた日経の某編集委員の車で支持者訪問中というとんでもない時の電話だった。しかし、もちろん電話の内容は秘密だった。

<効きすぎた菅副総理の根回し>
財務金融委員会の法案は全て通っていたし、審議しようと思えばできないことはなかったが、4月下旬提出というのはルール違反である。翌日、私は山岡さんに電話した。ところが、山岡さんの返事が振るっていた。「いやいや、篠原さんの言うとおりだけれど、副総理がやりたいと言っているものをそんなムゲにダメだというのは失礼になるんじゃないかな」といつに似ず(?)やさしい答えが返ってきた。私は慌てて「国会日程が詰まっているのに、こんなハラハラするようなものを」と言ったら、「いや、菅副総理が昨日来てね、一時間ぐらい話し込んで行ったんだよ」。唐突発言ばかりで根回しなど全く無縁と思われている(?)菅副総理直々の要請の効果は抜群だったようだ。なんと念を入れて三井国対代理にも要請していた。菅さんの思い立ったら一直線の姿勢が如実に表れていた。
財務大臣になり、財政規律の健全化の必要性を痛感し、自ら成し遂げようと真剣だったのだ。しかし、幸か不幸かわからないが、鳩山総理が5月上旬に菅副総理のこのアイデアを却下して事なきを得た。

<歯止めがなくなった菅総理>
ところが政局はめまぐるしく動いていく。6月2日の突然の鳩山総理の退陣により、菅さんがろくに準備ができていない間に総理になってしまった。私は農林水産副大臣を命じられ、着任した翌日から口蹄疫現地対策本部長として宮崎県入りした。それを追うようにして、6月12日に菅新総理が宮崎入りした。
菅さんは元々農業に親しみをもっている「親農派」であり、現場主義者なので口蹄疫のことが気になって仕方がなかったのだろう。関係市長、町長の意見を聞く会で橋田 西都市長の質問に対し、大きな声を張り上げ始めた。その後の、東国原知事との会談も意気軒昂であった。この張り切りぶりを見て、私はいやな予感がした。絶頂期こそ、あるいは得意分野でこそ、謙虚さを失い失敗しやすいからだ。
そして参議院選挙の遊説の最中、6月17日、例の消費税を10%、かつ自民党の案を丸呑みするという発言が飛び出してしまった。その後、低所得者には還付するだのどうのこうのと二転三転する。財政規律の健全化が一足飛びに消費税のアップになってしまったのだ。万事休すである。この時もそばにいて止められたらともどかしい思いがした。

<野党案を丸呑みの経験が裏目に出る>
菅さんが1回目の民主党代表の時に金融国会があり、小渕政権が民主党の案を丸呑みした。菅さんは政局にしないということで、小渕政権は金融危機を乗り切っている。今立場が逆になり、林芳正さんが中心となり、自民党が財政健全化責任法(※)なる法案を提出したので、逆に、自民党案にそのまま乗ろうとしたのである。違いは、重厚な自民党政権と異なり、未熟な政権では根回し、調整というプロセスがなっていなかった。そして見事に失敗した。
(※)正式名称: 国等の責任ある財政運営をはかるための財政の健全化の推進に関する法案

<脱原発、バイオマス資源も菅さんの一貫性の表われ>
有権者の皆さんからお叱りを受けるかもしれないが、すさまじい菅バッシングは、尋常な精神の持ち主ではとても耐えられないだろう。6月2日から約3ヶ月に及ぶ粘り腰は驚きに値する。3条件の最後の再生可能エネルギー法案も通ったし、菅総理は最後は有言実行したのである。
今後は、バイオマス、林業といったことを皆に迷惑をかけない程度に、一議員としてやっていきたいというのも、前からの親農派、親林業派の菅さんならではの発言である。
菅さんは精一杯頑張り、立派に第91代総理をやり遂げたのである。私は心からご苦労様といいたい。

投稿者: しのはら孝

日時: 2011年9月22日 11:39