2016.08.30

政治

オリンピックを政治の道具にするな -安倍総理の任期延長に悪用されたリオ閉会式- 16.08.30

<国威発揚、県威発揚>
 リオ・オリンピックの最中に、夏のオリンピックでメダリスト(個人)を輩出していないのは、日本国内では長野県と埼玉県だけだとネットで流れていたという。故郷に人並み以上に肩入れする私は、それこそ肩身の狭い思いをして、バドミントンの奥原希望選手(大町市出身)を熱烈に応援していた。早速それを打ち消してくれたのは、彼女と小布施町出身の荒井広宙選手(競歩)の銅メダルである。同じように長野県に拘る信濃毎日新聞が1面トップで快挙を報じたのは当然である。また、シンクロの箱山愛香選手(長野市出身)も団体競技ではあったが、主将として銅メダルを獲得した。長野県出身の選手の皆さんの頑張りで、汚名返上できたのは嬉しいかぎりである。まさに県威発揚である。
 サッカーのワールドカップや○○世界選手権もあるが、やはりオリンピックは特殊なものである。国民も皆違った意味で4年毎の開催を待っているし、まさに国威発揚の場となっている。

<政治を嫌うオリンピック憲章>
 ところが、オリンピック憲章50条で「政治的、民族的宣伝活動の禁止」を定める他、オリンピック大会は国家間の競争ではないと、ナショナリズムを持ち込むことを否定している。しかし、理想通りにはいかないのがこの世のならいである。
 遥かかなた昔、1936年ベルリン大会ではヒトラーは国威発揚のためにオリンピックを使った。反ユダヤ主義の人権侵害に対し、欧米諸国がボイコットを呼び掛けたが実現しなかった。ヒトラーは、巧みに平和や寛容を演出し、メダルも多く獲り、アーリア人(ドイツ)の優秀さをアピールした。その後、手のひらを返して戦線を拡大し、国内ではナチスのユダヤ人迫害に至っている。

<オリンピックの政治的利用>
 今回も違った意味の政治が出現した。マラソン男子銀メダルのリレサ選手(エチオピア)が、両手を×印(抗議の意)にしてゴールした。出身民族オロモ人を弾圧する母国、エチオピア政府への抗議である。祖国に帰れば殺されるか、投獄されるかもしれないと恐れ、凱旋帰国はしないという。1968年メキシコシティでも、アメリカの200m走金メダリストのトミー・スミスが黒人への差別に対して拳を挙げて(ブラックパワー・サリュート)抗議している。
 地元の市町村から、あるいは県から栄誉賞をもらえる平和な日本と大違いである。しかし、よくしたもので、母国に帰れないリレサ選手を支援するインターネットのサイトには、募金が集まっているという。

<初めての身近なオリンピック選手伊達治一郎氏>
 私がオリンピックと政治で真っ先に思い出すのは、1976年モントリオールの74kg級レスリングで、フォール勝ちを連発して金メダルを獲った伊達治一郎氏である。
 遥かかなた昔、1977年夏、私はアメリカのワシントン大学で留学1年目を終え、2学期だけ他の大学へ行ってもよい仕組み(on leave)があることを知り、中西部のカンザス州立大学農業経済学部に移る直前だった。ひょんなことから、伊達氏ともう1人の銅メダリスト菅原弥三郎氏を隣りのオクラホマ州まで送ることになった。
 あちこちに泊まりながら数日間3人旅を経験した。さすがメダリストである。朝、必ずベッドの上で腰を捻る運動をし、且つランニングをしてから朝食である。この習慣は一日も欠かさなかった。彼らはサマースクールの看板レスラーとして招待されていたようだが、英語がそんなに話せるわけではない。それでも、持ち前の愛嬌と度胸で、どこでも人気者だったのが伊達氏だった。後で知ったことだが、日本人が本番に弱いといわれている中で、たゆまぬ綿密なトレーニングによる体力増強と精神力により、伊達氏だけは金メダルを獲るだろう、といわれていたという。僅か数日の旅をしただけだが、頷ける話であった。

<政治の介入で2つ目の金メダルを逃した伊達氏>
 ところが予期せぬことが起きた。ソ連のアフガン侵攻に抗議して、1980年のモスクワ・オリンピックに日本も参加しないことが決定されたのである。今と同じく、ただただアメリカの決定に追随するだけの情けない外交のトバッチリである。同じレスリングの高田裕司氏(今回の日本選手団総監督)や柔道の山下泰裕氏も金メダルが当然視されており、前者は涙の記者会見とやらで嘆いていた。ところが伊達氏だけは国策に従うと平然としていたのを今でもよく覚えている。潔い「サムライ・レスラー伊達」の面目躍如であった。ただ、私は彼の心中を慮かってその心意気に涙した。
 紛れもない政治のオリンピックへの介入である。次の1984年ロス・オリンピックでは遂に東側諸国がボイコットという仕返しをされている。

<安倍スーパーマリオ問題>
 こうした中、リオの閉会式で突然登場したのが、安倍総理のパフォーマンスである。オリンピックの中心は、あくまで開催都市である。国は二の次なのだ。だから、オリンピック旗を受け取るのは県知事や市長である。1994年塚田佐元長野市長がリレハンメルでオリンピック旗を受け取っているのが好例である。今回も小池百合子東京都知事がオリンピック旗を受け継いだが、なんと安倍総理が任天堂の大ヒットゲーム「スーパーマリオブラザーズ」のマリオに扮して登場し、東京と書いた帽子をかぶり、「東京で会いましょう」と得意の(?)英語で呼び掛けた。
 IOC(国際オリンピック委員会)は、開会式や閉会式の政治的な宣伝活動を厳しく禁止しており、今まで一国の総理が閉会式に登場したことはない。挙句の果ては、このサプライズ演出の発案者が森喜朗・東京五輪組織委員会長だと、武藤敏郎事務総長が明かしている。揃ってオリンピック憲章を踏みにじっているのだ。

<オリンピックを延命に使う安倍政権>
 自民党の二階俊博幹事長が、2期6年(1期3年)までしか総裁を務めてはならない、という党規約を3期9年までできるように変えようとしている。これに対して次期総理を狙う石破茂前地方創生相、岸田文雄外相が反対し、そのまた次を狙う小泉進次郎農林部会長も疑問を呈しているが、当然のことである。まだ任期を2年も残しているにもかかわらず、早々にルールを変えようとしているのである。憲法改正がままならないから、安保法制でチョロまかそうとしているのと同根のルール違反である。
 東京オリンピックを自分の任期延長や政権維持に活用しようという魂胆が垣間見えてくる。スーパーマリオのTV放映は効果抜群だった。日経の世論調査で、東京オリンピックまで安倍総理に続けてほしいと思う者が59%に達している。東京オリンピックの成功を願う真面目な国民の心にしっかりくさびを打ち込み、国内的には安倍総理の目論見は大成功を収めた。ところがこの悪巧みに対しほとんどのマスコミはこれに沈黙である。
 「権力は腐敗する」のであり、欧米先進国はアメリカ大統領や州知事の任期は2期8年と制限されている。いくら強大な権力者でも、そのルールを変えて居座る者はいない。あの強権的なプーチン・ロシア大統領ですら一旦退いて、また復帰している。つまりルールを守っているのだ。それをオリンピックの閉会式に出演することにより、2020年の東京は自分が総理として迎えることを強烈にアピールしたのである。

<歴史のアナロジー>
 そもそも東京五輪は、新国立競技場の白紙見直し、エンブレムの盗作騒動、予算額を大幅に上回る建設費、開催決定時の金銭提供疑惑、舛添知事のせこい金銭ごまかし等、ケチのつきとおしである。
 安倍総理の悪い癖は沢山あるが、伊勢志摩サミットを消費増税再延期に悪用したのと同じで、国際舞台を国内政治の格好つけに使うことも挙げられる。そこにもう一つ実績(?)として加わったのが、今回の閉会式への出しゃばり出演である。
 行かなくてよい、いや行ってはならないリオ・オリンピックに数千万円をかけて総理特別機で出かけ、東京オリンピックの無駄遣いを象徴するような出来事である。私は、このように歪み始めた東京オリンピックは、前途多難な気がしてならない。
 それだけではない。私はヒトラーがベルリン後に更に強権的政治を強めたのと同じく、安倍政権ないし自民党政権が東京オリンピックの後、憲法9条も改正し海外に噴出していくのではないかと危惧している。歴史は繰り返すのである。

投稿者: しのはら孝

日時: 2016年8月30日 12:02