2018.11.16

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【県民気質シリーズ2】長野県民が戦争体質を嫌うDNAはどこから来たか- 貧しい南と北の二人の満蒙開拓農民の救世主が見本 -18.11.16

 今年3月、NHKが満州からの引き揚げ船の獲得に獅子奮迅の働きをした丸山邦雄を主人公にしたドラマ『どこにもない国』を土曜の夜のゴールデンタイムに2週にわたり放送した。遅きに失した感があるが、少しはその働きが多くの国民に知られることは喜ばしいことである。

<南と北の二人の長野県人の大胆な行動>
 戦後、満州には多くの日本人がいた。そして、帰国をどうするか、どこも確たる方策が無かった。そうした中、個人の資格でその英語力を駆使して駆け回ったのが、長野の北の果てで、飯山市富倉で生まれ育ち、明治大学卒業後アメリカに留学した経験のある丸山だった。その働きは後述する山本慈昭の周恩来への直訴の手紙と同じく、マッカーサー等アメリカへの直接的アプローチであり、極めて大胆なものであった。日本政府が動かずにいたのに業を煮やし、自ら立ち上がり事を成し遂げたのである。

<共通する隣人への思い>
 二人をそこまで突き動かした理由は、共通である。長野の貧しい南と北の山村集落から、数多くの満蒙開拓農民が出ており、自らの隣人に思いを馳せつつ、その救済に全力を尽くしたのだ。それは、私が満蒙開拓農民の痛ましい集団自決に心が痛み、国会の質問で取り上げたのも身近で知っていたからである。その後私は市川久芳飯山市議会議員とともに地元秘書総動員で中野市東山の8月25日の慰霊祭に取り組んでいる。

<杉原千畝と同じく息子ポール邦昭が父の実話をまとめる>
 山本慈昭のことは既に和田登が、著書『望郷の鐘 中国残留孤児の父・山本慈昭』(2013年)をものにし、内藤剛志主演で映画『山本慈昭 望郷の鐘 満蒙開拓団の落日』もできている。日本のマスメディアは劇的な父母との再会を大きく報道し、誰もが知るところとなった。それに対して丸山は戦後すぐ出た書籍により知られてはいたが、その後はほとんど取り上げられなかった。大連等大きな港でなく、なぜ小さな葫蘆島から引き揚げ船が出るようになったのか謎だったが、終戦直後はともかく長らく取り上げられなかった。どうも悲惨なことについては語り継がれるが、成功したこと(100万人もの日本人が無事に日本に帰国できたこと)については、いつの間にか風化してしまい、忘れられがちである。それがアメリカ在住の子息 丸山・ポール邦昭が杉原千畝のユダヤ人救出の業績がその息子により世に知られることになったのに突き動かされ、父の業績を一冊の本『満州 奇跡の脱出』(2011年)にしたことでやっと世に知られるようになり、NHKのドラマ化に繋がった。

<大胆な直訴も二人に共通>
 引き揚げがようやく始まったのは1946年4月、日中国残留孤児の帰国の開始は1972年。それを、あとから始まったことのほうがあまねく国民が知ることとなり、葫蘆島からの大送還は当たり前のように思われ、あまり取り上げられなかった。ユダヤ人救出も見事だったが、日本の105万人の同胞の救出の舞台裏で汗をかいた人々のことをもっと顕彰しても良いのではないか。
 詳しい内容は著書に譲るが、日本国政府への働きかけばかりでなくマッカーサーへの直訴という本来考えられないような方法を考えたのも、身近な人たちを一刻も早く救わなければならないという切なる思いからであろう。こちらは重厚な演技が光る内野聖陽が丸山を演じ、その同志の武蔵正道を満島真之介が演じた。私は危機が連続する日本への脱出劇、そしてGHQとのやりとりにハラハラしながらテレビにかじりついて見た。

<最も忠実に国策に従った長野県民>
 前置きが長くなったが、長野県民が戦争を殊のほか嫌うのは、この悲惨な満蒙開拓故でもある。前号(『自民党総裁選、石破が安倍首相に15票の僅差で肉薄した本当の理由』 18.10.2)に長野県民がいかにまじめかを例示したが、戦前も同じである。国策である、満州開拓に県民一丸となって応じたのである。その結果が約50開拓団、全体の一割を超える全国最大規模の約3万人にも及ぶ満蒙開拓農民につながった。もちろん、しっかりした眼を持つ2~3人の村長は、現地視察をした上で、満蒙開拓への送り込みを拒否した。しかし、県も市町村役場もこぞって国策に従い、中ソ国境に近い一番北の開拓地に向かわせたのである。よく出てくる大日向村は村を上げて満蒙開拓に取り組んだ。また、教育県長野らしく先生たちも15歳前後の少年義勇軍入りを強力に勧めた。600人余に及ぶ高社郷集団自決の悲劇に象徴されるように、その多くが二度と長野の故郷に戻ることがなかった。(『高社郷集団自決の悲劇を繰り返さないために』14.02.07)

<満州の地で日本人とも知らず一生を終えつつある残留孤児が哀れ>
 山本慈昭は、逃げ帰る途中妻と二人の娘と離れ離れになり、本人はシベリアに抑留された後一人日本に帰国した。そして、政府が冷たく何もしない中、一人中国残留孤児の帰国に取り組み、せっせと周恩来にも手紙を書き送った。その思いが天に通じたのか、中国人に託した娘が日本語も忘れたものの生きており、劇的な再会が出来ている。そして、残留孤児約2,500人余が日本に帰国している。ベストセラーとなり同じくNHKでドラマ化された『大地の子』の作者・山崎豊子はその取材ノートで、「自分が日本人とも分からず牛馬のごとく酷使されているのが本当の残留孤児だ。泣きながら取材したのは初めてだ。」と書き留めている。悲劇はいまだ続いているのだ。

<かつての敵国日本の孤児を育ててくれた中国人に感謝する長野県民>
 満蒙開拓関係者は、自分たちの農地を奪い、わがもの顔に振る舞っていた日本人(開拓農民)の子供を、我が子同様に育ててくれた中国人に感謝の念を持っており、親中感が強いのは理の当然である。長野県日中交流協会の活動もこうしたことの上に成り立っている。大日向村を選挙区に抱える井出正一元厚生大臣は、こうしたこともあり、長らく長野県日中交流協会の会長を務めていた。正一の叔父・井出孫六も『終わりなき旅―「中国残留孤児」の歴史と現在』(1986年)を書きあげている。
 つまり長野県民の多くは満蒙開拓をそして戦争を忘れていないのだ。中国政府が、2008年の北京オリンピックの聖火リレーを長野県にと指名してきたのは、こうした事情を熟知していたからである。

<満州に果てた満蒙開拓農民のリスト作成こそ政府の仕事ではないか>
 政府は、ロシアに対してシベリア抑留者のリストの提出等、いつも強硬な態度をとる。拉致問題で北朝鮮に毅然とした姿勢で臨むのは当然である。日本人の生命にかかわることであり、まさに国が率先して取り組むべきことだからである。そうだとすれば、自国のしでかした満蒙開拓の犠牲者にも同じ思いを馳せるべきである。約30万の開拓農民のうち、半分近くが満州の土に埋まっている。
 ところが女、子供、老人しか残っていなかった開拓村の人たちの名前は、地元の市町村が持つだけで、政府は何もしていない。長野県の南の端にある阿智村(山本慈昭が住職を務めた長岳寺もある)に平和記念館が建てられた。これも満蒙開拓農民でかろうじて帰国できた者の子息・寺沢秀文等が中心となり関係者が自力で成し遂げたものである。

<お国のために命を落としたのは軍人だけではない>
 そこは天皇陛下も訪問されておられる。それに対し、私は上述の予算委で靖国神社への参拝にはこだわる安倍総理に説明し訪問するように促したが、いまだ行く気配がない。この件は私の質問を前書に引用して高社郷の集団自決を扱った、毎日新聞記者故小林弘忠の著書『満州開拓団の真実』に紹介されている。戦没者に敬意を示すのと同時に、満州の地に果てた健気な人たちにも目を向けてやらねばあまりに憐れである。
 安倍総理のこのような二枚舌に対し、保守系自民党の党員ですら拒否反応を示したのが、総裁選挙で石破との差が15票に肉薄した理由の一つである。まさに、日中・日韓で隔たりの大きい認識の差の一つであり、安倍総理と長野県民の間にも大きな溝があるようだ。

投稿者: しのはら孝

日時: 2018年11月16日 09:18