2021.10.02

農林水産

【歪んだ畜産シリーズ3】犬の放し飼い禁止もいずれ世界から批判される -日本の供養の精神を復活して動物に優しく- 21.10.02

<放し飼いの犬も悪さはしなかった>
 小学生時代の私の飼い犬テス(私のイニシャルT・Sからとった)は、今と違い放し飼いが許されていた。一応夜は鎖に繋がれていたが、私が学校から帰ってくると一緒に畑に行ったり遊びに行った。家の屋敷の中だけでなくそこら中を自由に走り回っていた。
 ところがテスには、放し飼いの鶏を追い駆け回すという悪い癖があった。もちろん、鶏が大騒ぎして逃げ回るのを楽しんでいるだけで噛み殺したりはしなかったが、祖父は鶏が恐がって卵を産まなくなると怒ってテスをどこかにくれてしまった。僅かばかりの卵だったが、貧しい農家にとっては大事な収入源だったからだ。

<家の中で飼われ、リードでつながれて虐待(?)される日本の犬>
 欧米での動物の権利、動物福祉の動きは、1964年英のルース・ハリソンの著書"Animal Machine"から始まったと言われている。続いて1975年ピーター・シンガーの「動物の解放」が影響を与えた。①飢え・渇き②不快③痛み・外傷・病気➃恐怖抑圧からの自由、そして5番目の「通常の行動様式を発現する」自由が唱えられた。EU等のケージ飼いの禁止もこの5番目の自由の確保からきている。
 狂犬病予防の観点から犬の放し飼いが地方自治体の条例で禁止されている日本の犬には、この5番目の自由が全くなく虐待を受けていることになる。自由に歩き回るという犬の通常の行動様式を抑圧しているのだ。ドイツの一部の州では犬をつないで飼うことが禁止されている。その他子犬は8週齢まで母犬から離してはならないとされ、当然つながれることがない。フランスの三ツ星レストランには人間の子供は入れないが、訓練された犬は入店できるのだ。
 ところが、1960年代後半以降日本では、テスのような放し飼いはできなくなった。この結果、犬の小便の臭いが消え、鳥獣害の被害が拡大していることを14年前の予算委員会の質問で指摘し、中山間地域では犬の放し飼いを認めるべきだと力説したが一向に改善されていない(しのはらブログ 2007年3月1日予算委員会「地域間格差問題」集中審議報告(その5)07.03.14)。

<いずれ日本の犬の虐待が追及される>
 犬や猫のペットは核家族化や1人暮らしの増加とともに増え、2008年にピークを迎えその後減り続けている。(表「犬・猫飼育数の推移」)犬・猫飼育数の推移.pdf
 減ったとはいえ、2020年犬は849万頭、猫の964万頭と猫のほうが多く飼われている。そうした中で唯一褒められるのは、40年前の1979年には犬98万頭、猫12万頭の殺処分がされていたのに、関係者の努力で2019年にはそれぞれ5,635頭、2万7,108頭と激減していることである。(表「犬・猫の殺処分数の推移」)犬・猫の殺処分数の推移.pdf
 1960年には、単独世帯数は372万世帯にすぎなかったが、2015年には1,842万世帯と5倍に増え、1世帯当たりの平均が4.14人から2.33人に減っている。日本人は急速に孤独な暮らしをするようになった。その一つの救いがペットであり、子供や家族の代わりに愛情を注ぐようになったのだ。(表「単独世帯数及び1世帯当たり人員の推移-全国」(1960年~2015年))単独世帯数及び1世帯当たり人員の推移.pdf
 ところが、可哀相に犬は家の中で飼われ、リードにつながれて散歩に連れていってもらわないかぎり、外を歩き回ることができない。人間(飼い主)の都合しか考えていないのだ。
 世界動物保護協会(WAP)は世界各国の保護度合を評価しているが、日本は総合評価Eで畜産動物はG評価と、先進国中最低である。日本の養鶏がOIEから勧告を受けたとのと同様、ペット犬の扱いについてWAPから厳しい指摘を受けるのは時間の問題である。ペット犬の愛好家が、日本の現状を自ら改善していくことをなぜしようとしないのか、私は不思議でならない。自分の愛玩だけを考えて、犬の権利や福祉に目を向けようとしていない。イギリスの東部の動物園は、13頭のゾウをケニアの群れに渡して自然に戻している。このような動きが世界中で見られるというのに、日本はあまりに無頓着である。

<福島原発事故で置いてきぼりにされた家畜やペット>
 チェルノブイリ事故の被害は、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの三国の境界地帯にあったため、ベラルーシの農村地帯のほうが汚染度合は高かったと言われている。当時ベラルーシ政府は近所の農民に速やかに避難しろと命じていたが、農民は家畜も同伴し、数日かけて歩いて避難している。もちろん家畜など置いて、放射能が漂う外気に接しないようにして移動すべしと命じたが、その命に従わず家畜も一緒に歩きながら移動してしまっている。
 日本では福島第一原発事故の際、飼っていた牛もペットの犬猫も置き去りにせざるを得なかった。なぜなら、道路は避難する車で埋まり、とても家畜やペットを連れて行く余地はなかったからだ。そのため鎖につながれた乳牛は、柱をかじりながら餓死し、放たれた牛やペットは放射能を大量に浴びて野生化していたのである。その野生牛が民家に入り込んで荒らすなどの事態を重視した政府は、牛の殺処分を命じた。こうした牛の数は1,700頭にも及んでいる。馬頭観音で役に立った馬や役牛を供養してきた日本人は動物や家畜に対する慈しみが大きく、農民の気持ちを考えると身につまされる。そして残された家畜やペットの末路には涙を禁じ得ない。

<中山間地域から犬の放し飼いを復活>
 日本は、家畜の飼い方を変えるだけではなく、国際社会から批判される犬の飼い方も改善していくことを考えなければならない。動物愛護については劣等生の日本の一石二鳥の解決策は、犬の放し飼いを鳥獣被害に悩む中山間地域から認めることである。
 犬の嗅覚は、人間の比ではない。最近の研究によると猪のほうが上であり、更にその上を行き水辺の臭いまでわかるのが象だそうだ。だてに鼻がやたら長いのではなく、ちゃんと機能が備わっていたのだ。野生動物も臭いが行動の元になっており、縄張りがある。残された小便や大便で他の動物の縄張りを知り近づかないのだ。
 つまり、猿も猪も鹿も鼻で嗅ぎ分けて、犬の活動範囲には足を踏み入れない。だからかつて日本の山村ではどこでも犬を飼っていた。

<オオカミの復活も一理ある>
 増えすぎた鹿が幼木を喰いちぎり、日本の山を荒らす原因となっている。生態系バランスを元に戻すためにオオカミを復活させるべきだ、という考え方もあり、「日本オオカミ協会」は真剣に取り組んでいる。その前に、オオカミの尿を輸入して畑に撒いて、鳥獣の追い払いができるか効果の程を検証している人もいる。前述の臭いで追い払おうというものだ。
 「『コロナ禍で起きたウッドショック』21.08.02」で指摘したとおり、中山間地域は丸太・製材の輸入自由化で生きていけなくなっている。そこに追い打ちをかけているのが鳥獣害である。京都のお寺でもあるまいに、電気柵を設けていてはコストが上がってやっていけない。だからただの犬の放し飼いで防止すべきなのだ。
 今42の都道府県に犬の放し飼い禁止条例があり、ない県も全市町村に条例があり、日本中で禁止されている。そうした中、福島県だけが「山間へき地等において、人、家畜、耕作物を野獣の被害から守るために飼い犬を使用するときには、けい留義務を免除」されている。まずこれを全国に広めるべきである。そして、その延長線上で、飼い主がきちんと犬を訓練し、放し飼いできるようにすることである。

<ペットショップはワシントン条約違反の温床にもなっている>
 詳細は省くが、ペットショップでいとも簡単に犬を買うことができることにも問題がある。もう一つ、狂犬病の予防接種の徹底は見事だが(ワクチン接種は義務ではない)、それなら欧米にみられるように飼い主の講習を義務付けるのも一案である。犬にだけしわ寄せがいっており、人間も飼い方を改めなければならない。
 50年前までは、犬は放し飼いだったのだ。それを一罰百戒で、狂犬病予防という一点のために犬を虐待し始めたのである。要は供養の精神を思い出し、動物や家畜への対応を昔に戻すだけのことだ。そうすることにより欧米と同じになれば批判されないで済むのだ。(2021.10.2)

投稿者: しのはら孝

日時: 2021年10月 2日 20:56