「表紙を変えても中身を変えなきゃ変わらない」の語源 -今 必要な伊東正義に続く政治家- 21.10.26
岸田首相へのバトンタッチについて、「表紙が変わっただけで中身は変わらない」と新聞各紙も言い、私も言い、あちこちでこの言葉が使われている。ところが、この言葉はどこで使われた言葉か知ってる人は数少ない。
<伊東正義の発した名言から>
1989年、竹下登首相がリクルート事件で退陣し、政治不信が渦巻いていた。伊東正義(元官房長官・外相)が、自民党の大物政治家の大半がリクルート株に汚染され、世間の批判を一身に受けた時に、無縁でいた大物政治家が伊東だった。当時の自民党はまだ自浄作用があったのだろう、伊東に総裁になってくれと党内が一致した意見で頼むことになった。ところが、それに対して伊東は「本の表紙を変えても、中身を変えなければ駄目だ」という言葉を発して宰相の座を断った。
総理になりたい人だらけの中で、総理を引き受けないという立派なこの政治家がどういう政治家だったのか、この機に紹介しておきたい(以下は私が主として松本清張の官僚論と、後述するが翁久次郎官房副長官から直接聞いた話が出典である)。
<満州で大平正芳と出会う>
伊東は14年福島県会津若松の生まれ育ちで、36年東大法学部卒業後農林省に入省し、63年退官直後の総選挙に出馬し、当選9回を重ねた。農林(水産)省出身の政治家という点では私の大先輩に当たる。恥ずかしながら、昨今の「格差」同様とても格が違う。以下、[括弧]で私との比較を述べる。
人生は偶然が左右する。伊東は間もなく興亜院に出向し、満州で大蔵省から出向していた大平正芳と同僚になる。名前が「まさよし」ということもあり気が合った。入省は同期だが、大平は苦学生故、4歳年長だった。戦時中に帰国するも空襲で焼け出され、大平の自宅に仮寓する。交友が深まったことがわかる。
<筋を通す会津人>
農林省では会津人の本領を発揮し、豪腕を持ってなる河野一郎農相(太郎の祖父)を相手に臆することもなかった。今だと内閣人事局にすぐ飛ばされるが、河野農相はうるさい奴と思いつつ「政治家向き」と評価していた。そうした激しい性格が災いし、3回大左遷され、特に東京営林局長から名古屋営林局長に左遷された時はこれで終わりかと思われていた。ところが、人物鑑識眼の優れた人がいたのだろう、農地局長等に戻り事務次官まで登りつめている[私も2回大左遷されており、優等生官僚とはみなされなかった]。
大平は池田勇人蔵相の秘書官を務めた縁で、52年政界入りしていた。そして、伊東は大平の誘いで政界入りし、池田派(宏池会)に所属したが、最初から「俺は大平派だ」と称し、池田も仕方ないと苦笑いするしかなかった。
<伊東が兄貴分で大平に意見する>
こうした仲だから大平政権下で伊東が内閣を支える大番頭・官房長官となった。二人の信頼関係から当然の人事だった。
大平はいわば役人道を極めることができず、多分後ろめたさがあったのだろう、農林省のトップとなり大組織の動かし方を知る伊東に内閣の要となってもらったのだ。この関係は 内務省を早々に辞めた中曽根康弘首相と警察庁長官後政界入りした。後藤田正晴官房長官にも当てはまる。3年3ヶ月の民主党政権の運営のまずさは、首相の器もさることながら、官房長官にしかるべき者をつけなかったことも原因である。
私は大平内閣の後を継いだ鈴木善幸内閣の時に内閣・総合安保担当室に出向した。翁久次郎副長官(元厚生事務次官)が続投し、かつ総合安保担当室の担当だった。そして首相直轄の組織であり、長官から直接指示をいただく立場にあった。その折、私に伊東・大平の友情関係を話してくれた。
二人のマサヨシの友情関係ほど美しい友情関係を見たことがない。意外なのは総理は大平さんなのに圧倒的に伊東さんが上の兄貴分で、総理に伊東さんがあれこれ意見を言い、それで動いていた。それは人となりをみていて仕方ないと思ったという。
<池田首相に料亭政治を辞めさせたのだから、大平にもゴルフやめよと直言>
大平は池田内閣の官房長官を務めていた。池田はもともと広島の造り酒屋の生まれで大の酒好きで料亭に入り浸り、いわゆる「料亭政治」と批判されつつあった。それに対し、総理になったのだから料亭政治はやめろと直言、池田はそれに従った。
伊東は大平に対して、あんたが池田に対して料亭政治をやめろと進言したのだから、ゴルフなどやめろと詰め寄った。大平は渋々従わざるを得なかった。
大平首相は一旦はやめたが耐えきれずに再開した。恐いのはうるさい大番頭伊東である。いつの日からか官房長官用にゴルフの日程を抜いた週末日程が作られ、届けられることになった。
ある時、翁官房副長官に「大平は止まっている球だがちゃんと打てるのか」と聞いたという。大平は官邸の懇親会のソフトボール大会で、ピッチャーがバットに当てようと一生懸命に甘い球を投げるにもかかわらず空振りして当たらなかったからだ。副長官は冷や汗をかいたが、ゴマカシは伊東にはとっくにバレていた。見て見ぬ振りをしていたのだ。
伊東は東大の野球部のキャッチャーであり、スポーツに長けていた[私も野球は大好きでそれなりにできる]。
<庶民感覚を忘れなかった飾らない政治家>
伊東はゴルフを一切しなかった。農地転用や国有林野の払い下げなどで不祥事が乱発していたこともあり、ゴルフなどに手を染めることはなかった。伊東は日本の貴重な国土(農地・林野)を潰して遊び呆けるのが許せなかったのである[私も同じ思いからゴルフとは無縁である。ただ、嫌われるので今まで言ったことがない]。
伊東は汗かきだったため、官邸の中でも腰にぶら下げた手拭いで汗を拭きながら仕事をしていた。よく見かけた普通の庶民の振る舞いである。これには流石官邸の職員たちもまいり、懇請し腰の手拭いはやめてもらった。
<大平首相の急死で鈴木内閣の外相、日米同盟の解散で衝突>
ところが、政治は一寸先が闇である。四十日抗争を経て80年福田派、三木派の本会議欠席により、大平内閣不信任案が可決、いわゆるハプニング解散により衆参同時選挙が行われた。大平首相は選挙期間中に急逝し自民党は大勝した。
伊東は総理臨時代理を務め、その後も加藤紘一等が総裁に担ごうとしたが固辞し、田中角栄元首相が推す鈴木善幸が総理となった。伊東は外相に就任している。ここでは日米同盟の解釈を巡り揉め事があったが、伊東は外務省の立場を守り筋を通している。
<ミスター・クリーン>
その後、中曽根内閣で政調会長、竹下内閣で総務会長と党三役の一角を務めた。そして89年、リクルート事件で竹下内閣が退陣し、上記の名言が世に知れることとなった。
伊東は、自民党内の実力者でありながら、清廉潔白で金権政治には無縁な人であった。生活の質素さでは、土光敏夫 第二次臨時行政調査会長が有名だが、伊東も全く同類で、雨漏りする家に住んでいた。同郷の渡部恒三(衆議院副議長・通産相)は東京佐川急便事件でも自民党幹部で金をもらわなかったのは伊東と渡部だけだと述べている。
<正義を貫いた伊東への後藤田の賛辞>
その後、後藤田正晴に請われて自民党政治改革本部長に就任したが、94年5月の葬儀では後藤田が弔事を読み、「あなたは政治家の中では珍しい愚直なまでの潔廉漢でもありました。こうした姿勢を貫き通したことに、私はすがすがしさ、美しさすら覚えます。党内にはそういうあなたを煙たがる空気もありましたが、この潔癖さこそがいまの政治に最も大切なことだと思います。」と述べている。
伊東はまさにその名の通り「正義の」政治家だったのだ。伊東が生きていたら、モリカケ・桜・黒川・河井、二つの汚れ川(吉川・西川)、菅元首相の息子の総務省過剰接待と続く汚れきった政治に怒り狂うことは間違いない。そして27年後の今も、第二の伊東が望まれる政治状況に変わりがないのは嘆かわしい限りである。