2022.01.21

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追悼 鹿野道彦 - 律儀な政治家に一度は首相になってほしかった(変更)- 22.01.21

<清和会のプリンスが政治改革で離党>
 鹿野道彦さんが、昨年の総選挙の最中の10月に亡くなり、26日に葬儀が行われた。12月13日に都内で開催した偲ぶ会には、民主党時代の鹿野派(素交会)のメンバー、鳩山元総理、枝野元代表等の他、野党からだけでなく安倍元総理までもが会場に駆けつけた。鹿野さんは福田赳夫元首相の覚えがめでたく、"清和会(現安倍派)のプリンス"と呼ばれ、当時清和会は鹿野派になるとまで言われていた。
 ところが鹿野さんは小選挙区制導入時に、政治改革を訴えて自民党を飛び出してしまった。竹下派経世会が中心に離党したが、清和会からも鹿野さんと増子輝彦さんが揃って離党し、その後非自民を貫き通すこととなった。私を政治の世界へ引き入れた羽田孜さんと北沢俊美さんも同じく飛び出し、非自民のまま政治家を全うした。この離党組メンバーで今も野党に残る現職は、岡田克也さんだけになった。

<鹿野農水相に副大臣として仕えて心服>
 2009年の民主党政権の実現は、羽田さんも心配し私も早すぎると気をもんでいた。案の定鳩山政権が1年で終わり、それに続いた菅政権も消費税問題でガタつき、2010年秋、菅降ろしの風が吹いていた。
 私はそのころ鹿野農林水産大臣に副大臣としてお仕えしていたが、閣内にいる時にあの3.11東日本大震災に直面することになった。そこで鹿野さんの凄さを改めて思い知らされることになった。的確かつ迅速に組織を動かし、震災直後の避難所はもちろんのこと、供給源を失った都市部でも食料不足は一切おこらなかった。これは鹿野さんの手腕に他ならなかった。
 別件であるが、野田首相がTPPを推進しようとするのを阻止できたのも鹿野さんのおかげである。

<鹿野さんを代表選に引っ張り出す>
 震災対応が一段落した菅内閣は退陣を表明し、2011年8月代表選が行われこととなった。私はこの時に民主党政権を維持するためには、鹿野さんに代表になってもらう以外にないと思い立ち、それまで敬遠してきた代表選に初めて関わることになった。やたら功名心に走る"民主党的"政治家に、国政も政権も任せるわけにはいかなかったし、このままでは民主党は潰されてしまうという危機感を抱いたからである。
 この時の予想は残念ながら的中し、民主党は12年に政権を奪われ、14年に民進党に党名変更、17年には3党に分裂した。二重苦、三重苦の道を歩むことになる。やっと21年に立憲民主党として統合したものの、初めての総選挙で予想外の敗北を喫し、今もまだ再生が課題となっている。

<抑えのききすぎる鹿野候補>
 2011年秋の代表選では、親小沢(一郎)・反小沢が争い、海江田万里さんと野田佳彦さんの出馬が取り沙汰されていた。ただ、党内にはそうした抗争に飽きていた人たちが多くおり、私が同志を集め鹿野さんに代表選出馬を頼んでいた。そこに、前原誠司さんと馬淵澄夫さんもが立候補し、なんと五人で争うことになってしまった。
 反小沢だったはずの野田、前原、馬渕の三候補ともこぞって小沢詣出に馳せ参じる中、鹿野さんは一歩も動かなかった。とうとう逆に小沢さんの方から会いたいという申し出があったが、それでも「俺が小沢さんと会うと後で"小沢傀儡"だと言われるから、絶対行かない」と受けなかった。こういう一途な鹿野さんの生き様に、私はますます惚れ込んだ。

<律儀で古風な振る舞い>
 他の候補が立候補の準備を始める中、鹿野さんはさっぱり動かなかった。自分を閣僚に任命した菅首相がまだ辞めると正式に表明していない時に、出馬表明などできないと言うのだ。私は「新人議員への知名度が一番低いのは鹿野さんなのですよ」と発破をかけたが、頑として動かず業を煮やした。鹿野さんは堅い人なのだ。
 菅首相が退陣を正式に表明した金曜日の夕方から議員会館の民主党議員の部屋を回り始めたが、ほとんどの議員は地元へ帰ってしまった後だった。

<鹿野さんの指図で野田代表誕生>
 代表選の結果、鹿野さんは4位であり、1位の海江田さんと2位の野田さんで決選投票となった。図らずも親小沢vs.反小沢がここにきて再現したのだ。そこで鹿野支持に集った者は、大島敦さんの「せっかくだから鹿野さんを中心にまとまっていこう」という提案があり、鹿野さんの指示に従ってまとまって決選投票をすることとなった。"鹿野さんが上着を着たままであれば1位に、脱げば2位に投票"というサインを示すことになり、結局鹿野さんは苦慮した挙げ句、2位に投票するようにとサインを出し、このおかげで野田さんが逆転し代表・首相になった。後日新聞等で「上着作戦」と報じられた。
 この時にも鹿野さんは「論功行賞で閣僚になったなどとは言われたくないから絶対要職には就かない」と言い張っていたが、私は「幹事長か財務大臣は受けてほしい。それぐらいは格からして当然だし、鹿野さんに引き締めてもらわないとこの内閣も党も何をしでかすかわからない」と進言した。ところが野田首相は農林水産大臣の続投を申し出てきた。鹿野グループ(素交会)の中から誰も閣僚にならないのはまずいという判断から続投を受け入れた。

<つまらぬ中傷で農相辞任>
 鹿野大臣と筒井農水副大臣は、中国への農産物の輸出に力を注いでいた。ところが、2012年秋、中国の農産物輸出協議会の件で怪文書がバラ撒かれ、民主党批判を繰り広げる二紙に大袈裟に報道された。中国に国家機密を漏らした「スパイの関与」などという言葉まで踊る一大事となった。鹿野さんも筒井さんも新潟のコシヒカリや山形のつや姫を中国に輸出せんがため熱を入れただけの話である。そもそも農水省に重大な国家機密などあるはずがない。この騒ぎで2人は糾弾され辞任することになった。内部のものしかわからない内容の怪文書で、鹿野代表・首相だと困る勢力が仕掛けた違いない。
 この一連のことで「野田首相は留任を強く要請しておきながら失礼だ」と鹿野さんは怒り、すぐに行動に移った。私は任にあらずと大反対したが、13年秋の代表選で細野豪志さんを支持すると言いだした。その後、細野さんの立候補が立ち消えになると自分が立つと言いだした。現職首相に立ち向かったところで、勝てるはずはなく、私は当然大反対したが、もう止まらなかった。そして、二度目の代表選敗北である。"民主党的"リーダーの危うさに同僚議員たちもようやく気付き始めたのだろう、他の四人の候補の中で国会議員票では2位を占めたのが救いであった。

<恐れていた突然の解散・大惨敗>
 ただ、気付くのが遅すぎた。12年末には野田首相は党首討論で安倍晋三自民党総裁の挑発に乗り、常任幹事会の大反対も無視して解散してしまった。私はこういうことを恐れていたのである。
 しかも、問題になっていたTPPを推進するという選挙公約まで盛り込もうとしていた。鹿野さんが中心となり我々は猛反対した。衆院解散後の夜暗くなった会議室で細野政調会長以下ひな壇の2氏が「一任を」で逃げようとしたが、鹿野さんは「長い政治家生活の中で同僚議員を落とす公約など見たことがない。絶対任せられない」と咆哮した、
 しかしながら結局押し切られ、2012年末の総選挙では民主党は57人しか残れないという大惨敗で、奈落の底へ沈んでしまった。鹿野さん自身までもが国会に戻れなかった。

<裏目に出てしまった政界復帰>
 惨敗選挙の直後、私は鹿野さん救済のためもあり、2013年の参議院選挙にあたり、衆議院で落選した3人の農林族議員を反TPPトリオとして比例区で立てたらいいのではないかと提案した。私の提言は立ち消えたと思っていたところ、6月30日に突然鹿野さんが参議院比例区に出馬することが決まった。いくら山形県では知名度があるとは言え、他の県で票を集めるのは難しく、私は準備期間1カ月では遅すぎるので絶対やめたほうがいいと、再び止めに入った。しかし、ここでもまたまた聞き入れられなかった。
 この理由がまた鹿野さんの律儀な性格を反映していた。「海江田代表がわざわざ山形まで来て頭を下げて出馬してほしいと言ってきたのだから、断れるか」というのだ。私は政治生命を断つことになると必死で抵抗したが、鹿野さんから「秘書だけをよこせ、あんたは来なくていい」と聞き入れてもらえなかった。私はしぶしぶ秘書を送り、それから3日後山形に馳せ参じ、ずっと鹿野事務所で選挙をやることになった。当時まだ長野県は二人区であり、羽田雄一郎議員が当選しやすい体制になっていたからである。この選挙で鹿野さんは落選し政界を引退することになってしまい、私の救済活動は裏目に出てしまった。

<密かな鹿野塾>
 しかし、鹿野さんはその後も政治への情熱は衰えなかった。そこで鹿野さんと志を同じくする仲間数人で数ヶ月に1回同じホテルの一室で意見を交わしていた。その後、この仲間から三人が代表になり、三人が幹事長となっている。鹿野さんこそが代表や幹事長といった幹部になるべき政治家だったのに皮肉である。残念ながら鹿野さんと比べるとどうも何かが足りない人たちばかりであった。
 また、政治問題が起こると私に指導電話がそれこそ頻繁にかかってきた。よくわからないが、なぜかしら私は元自民党の重鎮の羽田さん、亀井静香さん、鹿野さんといった人たちに追いかけ回されている。たまにこちらからかけることもあったが、いつしか「入院しているからかけてよこすな」と言われ、電話も途絶えていった。そして、21年秋の総選挙中に訃報が入った。

<鹿野首相なら民主党政権は続いていたかもしれず>
 もしも鹿野さんが自民党を飛び出さず清和会にいたならば、小泉元首相よりも先に首相となっていた可能性がある。そこまでは戻らなくとも、もし鹿野さんが2011年に代表・首相になっていたら、今も民主党政権が続いていたかもしれない。
 政界のifをいろいろ言い出すときりがないが、鹿野さんを代表・首相にできなかったことは返すがえすも残念でならない。残された我々が鹿野さんのできなかったことを実現して供養の証とする義務がある。ご冥福を祈るばかりである。

投稿者: しのはら孝

日時: 2022年1月21日 20:25