2022.08.04

政治

【安倍首相国会論戦追悼シリーズ①】鼻息荒い最年少首相は、農業者戸別所得補償制度を歯牙にもかけず -07年参院選は悪夢の37議席で、第一次安倍内閣は崩壊- 22.08.04

 06年9月、安倍首相は戦後最年少首相(52歳)として華々しく登場した。この時点まで私との接点はなかった。教育基本法を改正し順調な滑り出しだったように見えた。(質問は、冗長な私の質問は短くしたが、安倍首相の答弁は大半そのままにして、生の声が伝わるようにした)

<農業者戸別所得補償を無視>
 私は民主党のネクストキャビネットの農林水産大臣を拝命し、農政を大転換する大胆な政策を作り上げており、それを引っ提げて07年の参院選を戦うことになっていた。そして初顔合わせは07年3月の予算委員会である。

 私は、4ha以上の専業農家と20ha以上の集落営農しか支援しない、規模拡大ばかりの米対策は、日本の農業にそぐわないと質問をぶつけた。面積要件はとっぱらって、意欲のある農家は全て所得補償すべきだ、と民主党農政の柱を力説した。ところが、安倍首相は、つれなく私の主張を退けた。

07年3月18日予算委
篠原...大体、長野県なんか、みんな零細農家ばかりです。四ヘクタール以上の農家や二十ヘクタールの集落営農なんて集落に何軒あるか。
安倍...例えば、四ヘクだけではなくて、二十ヘクという集落の形において対応していくことができます。コルホーズ等の問題点は、努力や成果とそして収入が全く関係なかったからじゃありませんか。意欲が結果に結びつくようにさらに私たちは支援をしていこうということでありますから、全く逆だ、このように思います。

<農業者戸別所得補償に粉砕された「悪夢の07年参院選」>
 その後小沢一郎代表と私の間で協議を重ね、(私は諸々の理由で反対するも押し切られた)「農業者戸別所得補償」という長ったらしい名前の政策となった。それを引っ提げて参院選を戦った。日本農業新聞が農政の与野党対決ということを書き連ねてくれたこともあり、自民党の農政に飽き足らない日本の農民は、民主党の斬新な政策にびっくり仰天し、支持をしてくれたのだろう。29の1人区でなんと野党側は23勝し(民主党17)、自民党は6県(鹿児島、大分、山口、高知、和歌山、福井)でしか勝てなかった。
 農業者戸別所得補償の完全な勝利である。安倍首相は民主党の農政にここまで叩きのめされるとは、予想だにしなかったに違いない。全国的には、消えた年金こそ争点となっていたが、都市圏で野党の議席はそれほど増えなかった。民主党は32議席増の60議席、自民は27議席減の37議席というかつてない大敗北だった。これは批判だけでは国民を動かせず、目玉の政策が必要なことを教えている。(元NHK政治部記者の衆議院議員池田元久は、日本の農民が初めて政策で民主党を選んでくれたと論評し、後に09年の政権交代は農民がもたらしたとも付け加えた。
 本稿を書くにあたりこの時の解説を探ったが、年金問題とスキャンダルで大敗北との記述しかない。凶弾に倒れた後は、国政選挙6連勝の賛辞ばかりが並び、第一次内閣の大敗北にはほとんど触れられていない。日本のマスコミと政治評論家は情緒的で正確さに欠ける。それに対して、誇り高い安倍首相が一番このことを忘れていないだろう。まさに悪夢だったのである。これに懲りた安倍首相は、復帰後に経済政策を重視し高支持率を保ち「選挙の安倍」に変身していく。政策実現のため、まずは国民の支持が必要と学習したのである。

<早目の退陣が5年後の再登板につながる>
 これによりいわゆる衆参のねじれが生じ、法案が衆議院は通っても、参議院で民主党から反対されたら通らないという異常事態になった。それを憂えた安倍首相は、秋の臨時国会で所信表明を終えたのに代表質問を前にして突然辞任した。潰瘍性大腸炎と鬼門の農水相が4人も交代するというスキャンダルもあったが、多分これでは政権運営できないということで観念したのだろうと思う。
 傷口が深くなる前の退陣が、12年の復活に結び付いた。今になってみれば、極めて賢明な判断だった。しかし、当時これを予測できた関係者はほとんどいなかった。天が安倍首相を残したとしか言いようがない。続いた福田内閣も麻生内閣もいずれも1年しかもたず、09年の民主党の政権交代につながった。

<情に厚い安倍首相の真骨頂>
 ほとんどの人はこれで安倍首相の政治生命は絶たれたと思ったに違いない。そうした中、この安倍首相を励まし続けた自民党の議員が明確に1人いた。菅義偉である。4年後、11年秋安倍首相は5人(他に石原、石破、林、町村)の総裁選に勝利し総裁に返り咲いた。12年に政権にも復帰すると、菅を官房長官とし、以後ずっと据えていた。
 安倍首相とはそういう人である。雨天の友を大事にしたのである。安倍首相は、味方には徹底的に優しくする情の深い人である。だから官邸内にチームもできた。評論界でも西部邁が安倍首相を支えていたことを、社稷会(鈴木棟一主催)の鈴木の追悼講演で初めて知った。

<安倍首相は擁護し、私は意地悪した松岡農水相>
 ただ、時にはその情の厚さが逆に働くこともある。農政を牛耳っていた松岡利勝農水相の過大な事務所費への支出(いわゆる還元水)の不祥事である。どぎつい韓国と違い、日本のマスコミも野党も辞任すると追及を止める。ところが、安倍首相は決して罷免せず、ひたすら庇い続けた。
 私はその時あまり所属することのない(19年間で3回のみ)農林水産委員会の筆頭理事を任されていた。同僚議員の発案により、国民に説明責任を果たさないかぎり松岡を農水相として認めず、山本拓農林水産副大臣以下にしか答弁を求めないという、前代未聞の戦術をとった。

<悔やまれる松岡農水相の自殺、篠原は以降スキャンダル追及をせず>
 松岡農水相はスキャンダルの追及にはあまり動揺しなかったようだが、二階俊博自民党国対委員長が高木義明民主党国対委員長に、「あまりにもかわいそうなので、松岡に質問しないやり方はやめてくれ」と要請に来たという。しかし高木委員長は、「あれは篠原というどぎつい奴が勝手にやっている、俺の言うことは聞かないだろう」と応じず、そのまま続行となった。松岡農水相は2・3期生の時に他省の政務次官の打診があったが、農林水産政務次官以外にはならないと固辞する、農政一本槍の一途な政治家だった。長い付き合いの私なのに、不覚にもそこまで思い詰めているとは気づかなかった。

2007年4月11日 農林水産委
松木謙公...松岡大臣、ずっと座りっぱなしでご苦労様でございます。大変なお役目ですが、説明責任を果たしてもらいたい。さもなくば辞任をされるべきだと、うちの篠原筆頭が松岡大臣に言ったわけです。

 私が松岡農水相を自殺に追いやったかもしれないという自責の念にかられた。松岡農水相は確かに荒っぽい政治家ではあったが、農政にかける情熱は半端ではなかった。それを理解し擁護し続けたのが安倍首相、それに対して私は無視戦術を続けた。彼我の差に恥じ入るばかりだった。
 それ以降私は一切スキャンダル追及はしないことにした。その後、国対筋の幹部から西川公也農水相のスキャンダルの質問をしろと命じられたが一切拒否、その後その国対幹部から嫌われ意地悪をされる元になった。

投稿者: 管理者

日時: 2022年8月 4日 18:50