2022.12.31

その他

武村正義・篠原後援会会長追悼 - 大きな体のムーミンパパはキラリと光る政治家だった - 22.12.31

<武村滋賀県知事との偶然の出会い>
 私は1982年に偶然農業・農政について一文を書いたところ、週刊エコノミストに取り上げられ、更に朝日ジャーナル誌上で正反対の論を展開する学者と対論したことから、突然あちこちから講演を頼まれるようになった。松井浄蓮さんという大津の篤農家が、私が当時勤務していた内閣府ビルまで直接要請に来られたので、1983年1月の勉強会に出向いた。
 ところがいつもとは全く雰囲気が違っていた。麦わら葺きの東屋風の「麦の家」にいろりがあり、そこに猪木正道京大名誉教授、山岡亮一高知大学学長、米の研究の第一人者の渡部忠世京大農学部教授、後で分かったことだが延暦寺の高僧等錚々たる面々が陣取っていた。そこで私は、アメリカの自然破壊的農業は長続きしない、それに対して日本の農業は効率が悪いようだけれども、持続性があり長続きする、とおこがましくも長広舌を振るった。その時の聴衆の1人に若き武村知事がいた。私が35才、竹村知事が49才の時である。

<滋賀県の美しい自然が生んだ環境重視の武村さんの価値観>
 私の提唱する有機農業或いは環境保全型農業、今風に言えば持続型農業の考え方はその当時にしては珍しかった。そうした中、武村知事はすぐに理解して共鳴してくれた。それ以来交流が続いた。私と武村さんはほぼ同じ価値観を持っており、環境に優しい国造りをしなければならないと考えている点で、理想の社会像が一致していたからだ。
 私は1985年、農業から広げて日本の国の行く末について「農的小日本主義の勧め」という本を上梓した。石橋湛山の「小日本主義」に倣ったものである。

<武村総理への期待>
 1986年武村さんが国政に進出した。現職の霞ヶ関の役人としては出過ぎたことだったかもしれないが、「当選おめでとうございます。日本の総理を目指してください」と短い祝電を打った。私の期待を込めた願望だった。
 武村さんはその後私の予感どおり、さきがけ党首、官房長官、大蔵大臣と政界の梯子を昇っていった。

<篠原の総選挙出馬へのアドバイス>
 1996年武村大蔵大臣の頃、私は羽田孜元総理より故郷の長野1区から衆議院選挙に出馬してほしいと誘われていた。私は嫌だったので逃げまくっていた。その間にさきがけは解党、武村さんは田中秀征さん(長野1区)とともに民主党に排除され、政界から退いてしまった。だから私は「秀征さんが出たらいいのではないか」という言い訳も使っていた。武村さんがこうした調整に一役買ってくれた。

<篠原の選挙応援に滋賀県の同僚議員が嫉妬>
 2003年に羽田さんや堀込征雄さんからの強い要請に根負けして衆院選に出た時、武村さんは病気をおして応援に駆けつけてくれた。その当時、体力は相当に弱っておられ、1ヶ所に限り屋内であれば応援演説ができるということでお越しいただいた。後で滋賀県選出の同僚議員から嫌味を言われたが、武村さんは引退をされて以来、地元の滋賀県では選挙応援のためにマイクを握ることはなく、異例のことだった。

<全国後援会の会長を申し出てくれる>
 武村さんの応援もあり、羽田さんから言われたとおり、世界一長い政治家家系の小坂さんに小選挙区では敗れたものの比例復活することができた。
 どの国会議員も後援会を持っているようであり、私もということになった。ところが長野高校の先輩が、高校の先輩の財界人を会長にと探してくれたが、なかなか適任者が見つからなかった。それをちょっと話したところ武村さんが後援会長をやってやると申し出てくださった。私にはもったいない立派な後援会長だが、根底には2人をつなぐ太い絆があり、武村さんの政策を引き継いでくれるという確信があったからだと思っている。だから私は今も、しつこく環境委員会に所属し続けている。

<小さくともきらりと光る国は、拙書からヒントを得る>
 1994年に武村さんは「小さくともキラリと光る国日本」という本をまとめている。それを読むと前半ではギラギラとした政権交代のこと等が書かれているが、最終章で理想論を展開している。そして、「小さくともキラリと光る国日本」は私の著書から思いついたと言われた。誠に光栄なことだったが、「小さい」は石橋湛山の小日本主義が元祖で、そこに環境重視を結びつけたのが私だった。
 2人とも環境保全を何よりも優先しなければならないという過激な考え方の持ち主である。今風に言えばスウェーデンの少女グレタ・トゥーンベリと同じだと思う。つまり、こんなに資源を無駄にして環境を壊して経済だけ成長してどうするのか。このままだと世界も日本も絶対に行き詰まる。だから今のうちにもっと違う方向を目指さなければならないというものである。

<武村さんと私の共通の価値観>
 武村さんは、他の政治家と比べると政治家としての足跡の多くを書物にしている。オーラルヒストリーが1番長いが、考え方が如実に表れているのは、前述の『キラリ』と『私はニッポンを洗濯したかった』である。その2冊から私の気に入ったフレーズを羅列してみる。
 1980年、有リン合成洗剤を禁止する琵琶湖条例。日本の国土は大きい。古き良さが消え、どこも個性がなくなった。固有の歴史的環境美。わが町を美しく。家の高さ、屋根の形、壁の色までそろえる。河川の三面張りをやめる。農業は民族の苗代。環境の視点から、世界のすべての農産物を自由化していくことに少なからぬ危惧を感じていた。集落ぐるみ農業、日本には顔があった。大国とはならない。小さくともいいということは、特に軍事的な意味においてもである。緑のPKO。環境立国を目指す。環境税。自転車の町。世界湖沼会議。地球環境議員連盟。
 まるで私の過激な本の中にも出てくるようなフレーズが並ぶ。
 その他、政局に当たっての判断も大体私にも納得できた。年齢は14才上だが、滋賀と長野の美しい田舎で生を受け、日本の目まぐるしい変遷を見て育った上で行き着いた結論めいたものが、ほとんど一致したのである。

<元自民党のはみ出し政治家に親近感を持たれる>
 いつの頃からか亀井静香さんに追い掛け回され、民主党を飛び出して政権交代を目指せといった過激な檄を飛ばされた。その過程で亀井さんと武村さんは埼玉県の課長と埼玉県警の課長として同じ頃に出向し、その頃からの知り合いで親しかったということを知った。この2人に似たように愛されたというか見込まれたのである。
 私に目をかけてくれた武村正義(1934年・1983年)、羽田孜(1935年・1985年)、亀井静香(1936年・2009年)、鹿野道彦(1942年・1989年)[ 生まれ年 ・ 私と知り合った年 ]、皆元自民党の大物政治家であり、亀井さんを除き自民党時代から知己を得ている。けれども、飛び出すというか、はみ出すというかそういう類いの政治家で、全員が自民党を離党している。ちょっと過激な危うい改革者と呼べる人たちである。古き良き日本の農村社会で育った人たちである。今思うと、私のバックグラウンドもほぼ同じで、不器用さや土臭さが共通だったのだろう。それが故に諸先輩から優しい眼で見ていただいていたような気がする。
 羽田さんとは同じ時に国会にいたが、残念ながら武村さんとは入れ違いだった。

<キラリと光り輝いた稀有の政治家>
 12月18日、私のよく知る藤井絢子(菜の花サミット主宰)、嘉田由紀子(前滋賀県知事)といった環境派(?)が呼びかけ人となり、大津で開かれた武村さんのお別れの会に出席し手を合わせてきた。武村さんは、ごった返した日本の政界の中ではキラリと光る存在となって輝き、政界を洗濯し、静かに去っていった日本には珍しい政治家だった。
合掌

投稿者: しのはら孝

日時: 2022年12月31日 11:45