2023.01.18

環境

まだ水俣病の救済は終わっていない -地域と年代で救済に漏れた人を救わなければならない―23.01.18

<暫定的代表>
 私は、旧統一教会の被害者救済制度の実現に取り組んできた。それと同時に数か月前まで野党の「水俣病被害者とともに歩む国会議員連絡会」の代表を務めていた。水俣を抱える熊本県の野党議員がいないため、環境委が長い私が引き受けていたが、阿賀野川水銀の問題に取り組む西村智奈美前幹事長に代表を引き継いだ。

<1976年語学スクールのトンデモジョーク:日本の川にカメラを落としたら現像されていた>
 水俣病は、公害病の象徴として世界に知られている。
 私は1976年政府の長期在外研究員制度の下、アメリカに2年間留学させてもらうことになった。9月の新学期の前に少なくとも1か月は現地の語学スクールに通うことが義務付けられており、私は友人の助教授がいるワシントン大学のあるシアトルの語学スクールに通っていた。終了間際の授業で、ジョークを言えと命ぜられ、その前に先生が例を示してくれた。
「日本に旅行に行き、近くの川にカメラを落としてしまった。カメラを引き上げたが、せっかく撮影したフィルムが台無しとガックリしたが、取り出してみると現像が終わっていて節約になった」という際どいブラックジョークだった。工業生産でそれ程まで化学物質が垂れ流されていることを笑いにしていたのだ。
そして続いて出たのがミナマタだった。

<世界も知っている公害の象徴 水俣>
 原爆の投下地として広島・長崎は知られているが、環境問題に関心を抱く人たちには、ミナマタは意外とよく知られている。だから、2020年に水俣病の存在を世界に知らしめた写真家ユージン・スミスをパイレーツ・オブ・カリビアン等で世界に名を馳せたジョニー・デップが演じた『MINAMATA』が製作された。気候変動問題で揺れ、SDGsが提唱される今も水俣は知られている。
 ところが、日本ではまだ多くの水俣病の人達が、手足がしびれたりする障害に悩まされながらも、何の補償もされず捨て置かれている。そのことはあまり知られていないが、恥ずかしい限りである。

<水銀は体内に残る>
 こんな比較は失礼かもしれないが、旧統一教会の高額寄付はなかなか戻りにくいかもしれないが、今後の成り行きでは子供が返せと裁判を起こし、勝訴する可能性も見えてきている。また、今後は苦しめられている宗教2世にも救いの手が差し伸べられるようになっていくだろう。
 ところが体に水銀が残っている水俣患者とは異なる。今行われているノーモア・ミナマタ第2次訴訟で勝利し、今生き残っている1700人に補償が行われたとしても、水銀で蝕まれた体は元には戻らない。このことを考えると暗澹たる気持ちになると同時に、高齢になった水俣病患者を一刻も早く救ってやらなければならないと思う。

<水俣病患者の補償との闘いの歴史>
1950年頃水俣では魚が大量に浮上し、カラスが空から落ち、漁村の猫が100匹ほど狂い死んだ。
1956年4月、5歳と2歳の姉妹が原因不明の神経障害でチッソ附属病院に入院、同病院の細川一院長が同5月に水俣保健所に「原因不明の中枢神経病患者が多発」と報告し、水俣病の公式発見となる。当時、原因が分からず奇病や伝染病がうつると恐れられ、水俣の人たちは差別を受けた。
1958年9月、アセトアルデヒドを生産していたチッソは、工場排水の排水口を被害が発生していた水俣湾から水俣川にこっそり変更した。この結果汚染は八代海全体に広がった。
また、この奇病の原因解明に、行政もチッソも協力的ではない中、熊本大学の研究班が、1959年に原因を有機水銀と結論づけ厚生省に報告、厚生省が更なる調査の必要性を認めつつも、その後の必要な調査はなされず放置された。その間、チッソは猫実験で水俣病は現れなかったと発表、工場廃液の調査も拒否していた。
1962年 熊本大学教授の入鹿山且朗が「アセトアルデヒド工程の反応管から採取した水銀スラッジから、塩化メチル水銀を抽出した」と論文で発表。
1968年チッソ水俣工場はアセトアルデヒドの製造を停止、その後、厚生省が水俣病は「チッソ水俣工場の公害であり、生成過程のメチル水銀化合物が原因である」と認定した。
(第一次訴訟)
1969年、熊本地裁で第一次訴訟が始まり、1973年勝訴
(公健法)
1974年 公健法「公害健康被害の補償等に関する法律」で水俣病を対象とするも、認定に四肢末梢優位の感覚障害だけでなく複数の症状の組み合わせが必要とあり、認定患者は激減。救済制度として機能しなくなる。
(第二次訴訟)
・このため1979年第二次訴訟では、多くの未認定患者を水俣病と認め、更に1985年汚染魚を多食しているなど疫学条件があれば、水俣病に認定し国の認定基準は破綻していると批判。
・ところが、環境庁は認定基準を見直さなかったことから、1400人の原告が、新潟、東京、京都、福岡等全国展開で、チッソに加え、国、熊本県の責任を求める第三次訴訟を起こす。
・1987年熊本地裁は国と熊本県の責任を認め全面勝利し、各地で和解勧告されるも、国は和解拒否。しかし、国の責任を認める判決が相次いだため、国は医療費・療養手当のほかに患者一人あたり260万円の一時金を支払う政治的解決がなされた。
・2001年大阪高裁が、国と熊本県の責任を認め、感覚障害だけで水俣病認定、2004年最高裁も支持した。
(ノーモア・ミナマタ第1次訴訟)
・しかし、国は最高裁判決は1977年判断基準を直接否定していないと、判断見直しを拒む。
・そこで、水俣病不知火患者会は2005年、国と熊本県とチッソを被告として熊本地裁に損害賠償請求訴訟(第一次ノーモアミナマタ訴訟)その後、大阪・東京でも起こされ、原告数3000人に達する。
・2011年 医療費・療養手当のほかに原告一人あたり210万円の一時金支払いで和解。
(水俣病特措法)
・これを受けて2009年水俣病特措法「水俣病被害者の救済及び水俣病問題の解決に関する特別措置法」が成立し、約35000人が医療費・療養手当のほかに一時金の支給を受ける。
・その一方で、①根拠もなく行政の方針により対象地域が線引きされ②1969年以降生まれた人は救済対象にならず③県外居住者は情報不足で申請できないにもかかわらず2012年に締め切られた。
(ノーモア・ミナマタ第2次訴訟)
・そこで2013年、最後解決を目指して、熊本地裁に提訴、東京、新潟にも広がる。原告1700余名、そのうち200人が既に亡くなっている。
・大阪を加え、4地域の結審、判決が2022年から2024年初めにかけて行われる予定。

<延ばされっぱなしの健康調査>
 誰が水俣病患者かと見極めるには、学術的な根拠が必要であり、同じような症状を訴える者の診断、すなわち調査をしなければ判断できない。ところが、政府は特措法で健康調査を免じているにもかかわらず13年間、調査方法の研究開発段階と称して、1年に1回その経過を説明するだけで先延ばしにしている。福島第一原発事故後の子供の甲状腺癌の調査も一向にしようとしないのと同じである。
 完璧な治療基準なり、健康調査などありえない。不十分でもいいから関係者の健康調査を行い、刑法の「疑わしきは罰せず」ではないが「疑わしきは水俣病患者」と決め救済していくしかない。前述のとおり、裁判で処理して補償が行われたとしても、体が元に戻るわけだはない。せめて安心して医療を受けられるよう医療費・療養手当・一時金でお詫びするのが筋である。

<司法で救済しつつ、最後は政治決着>
 水俣病患者の救済の歴史を見ると、司法が力を発揮してきたことがわかる。しかし、最後はやはり政治が手を貸さないと本当の決着は図れない。過去の不始末は素直に詫びて速やかに救うべきである。
 特に地域限定などもってのほかである。我々団塊の世代などは地方では食べていけないことから大都会に出ていくのが常だった。育った所が水俣や阿賀野なら汚染魚をたくさん食べているのだ。汚染された場合はずっとそこに住んでいる者となんら変わることはない。
 また1968年以降の生まれは影響ないなどとなぜ言えるのか私には理解できない。
原発に胎児被曝というのがあるが、水俣病の場合は、子孫への影響はわからないのではなかろうか。頼むから子孫にまで悪影響を及ぼさないようにと願わずにはいられないが、体に大量に水銀が溜まってしまっている者には子供に悪影響があるほうが素直な見方ではなかろうか。
 国は幅広く救済することしかない。

投稿者: しのはら孝

日時: 2023年1月18日 20:42