2023.08.21

鳩山の東アジア共同体と東洋経済に引っ張られた湛山は同根 ―アメリカにしっぽを振らず独立自尊も共通―23.8.21

鳩山集.jpg 政治家の辞め時は、その政治家の人柄、政治姿勢を如実に表すものと思う。かくいう私も既に10年前から出処進退をどうするか、頭を悩まし胸を痛めている。

<潔い引き際派首相と見苦しいしがみつき派首相>
 自分のことを棚に上げて何だと言われるかもしれないが、私は首相まで務めた者は、次の選挙には出馬せず引退すべきだと考えていた。その通りの動きをしている者は、最近では、細川護煕、小泉純一郎、福田康夫、鳩山友紀夫である。それに対して、のうのうと議員を続けているのが、麻生太郎、菅直人、野田佳彦、菅義偉である。私は、2012年12月、3年3ヶ月の民主党政権が潰れた時に、菅直人、野田は短命政権責任をとる意味もあり退くべきだとブログに書いた。普段は私のブログを楽しく読み参考にしているという学者に、いくらなんでも、2人の首相まで務めた先輩政治家に引退しろというのは失礼ではないかと叱られてしまった。しかし、私は今でもそう思っている。

<湛山に引っ張られた小日本主義>
この攻撃対象にならなかったのが今回7月9日の久しぶりの国政報告会にゲストでおいでいただいた鳩山元首相である。鳩山さんは、余裕を残して政界を引退されたことから、今まで通り淡々と活動を続けておられ、2017年には『脱大国主義』という著書も出されている。史上最長政権となった安倍晋三首相については、「安倍晋三回顧録」が29万部も売れているというが、本人の筆によるものではない。それに対して、鳩山本は、回顧録でもなく自ら日本の外交方針を訴えたものである。そして、その元は石橋湛山の小日本主義にある。私が1985年に出版した「農的小日本主義の勧め」も同じである。

<NATOにも踊らされる危うい岸田政権>
 鳩山さんは、徒に軍事大国に向かう安倍政権の姿勢を危惧して、大国主義に陥るなと警告を発したのである。それにもかかわらず岸田内閣は安倍・菅内閣よりももっと暴走の度合いを高め、敵基地反撃能力により専守防衛を踏みにじり、5年間で43兆円の防衛費でGDP1%の上限を改めて2%にすると言い出している。

<鳩山も湛山も東洋への思い入れは同じ>
 鳩山さんが、今なぜ小日本主義(脱大国主義)なのかというと、石橋湛山が論説主幹を務めた「東洋経済」から発する東洋の思い入れと、鳩山さんの東アジア共同体との符合があるからではないかと思う。
 あまり知られていないが、湛山は日本ばかりでなく、アジア諸国も一緒に豊かにならなければならないと考え、早くから中国との国交回復を目論んでいた。首相になると意を同じくする松村謙三をアジア諸国に派遣している。こうしたことを知る田中角栄は1972年の日中国交回復の際に石橋に会いに行き意見を聞いている。
 実は、私は1985年、拙論「新小日本主義の勧め」(東洋経済、1985年11月1日号)(本文を拙書に入れ、本自体のタイトルを「農的小日本主義の勧め」とした)を書いている。ただ、それ以来、農林水産行政そして政治に没頭し、湛山を深追いできていない。

<石橋外交を見本とする系譜>
 2000年代に入り、湛山を題材にした本が見られるようになった。まず、鳩山さんもその一人だが、外交に着目した礼賛なり見直しである。しかし、残念ながら、安倍内閣に代表されるように、自民党政権がタカ派的体質を反映し、論壇も学会もそちらになびいてしまっており、ほとんどこの点についての評価や進展はみられなかった。
そして手前味噌になるが、私も共同代表を務める超党派の石橋湛山研究会である。与党自民党から我々の研究会に参加している人たちの大半は、あまりに威勢のよすぎる自民党の外交、防衛姿勢に疑問を感じた者ではないかと思っている。
 もう一つ、よくみると石橋湛山はアメリカにへいこらすることをかなり嫌っていた。よくわからないがそれがためにレッドパージがあったのではないかといわれている。日本の場合、タカ派、保守派がなぜかしら対米追従派になっている。そしてハト派、リベラルがアメリカにおもねることを潔しとしない、これに疑問を呈す、真の保守が今の自民党政権に与するはずがなく、石橋湛山に共鳴してくるはずである。

<ジャーナリストとしての姿勢に共鳴する系譜>
 石橋湛山については、石田博英衆議院議員が心酔しその秘書だった田中秀征がやはりほれ込み『日本リベラルと石橋湛山』(2004)を書いている。また、辛口評論家の 佐高信も『湛山除名 小日本主義の運命』(2004)を書いている。直近では、船橋洋一がジャーナリストとして官憲の厳しい監視の中でも自らの反軍の主張を貫き報道の自由を堅持したことに注目し、ジャーナリストとしても矜持を絶賛して『湛山読本―いまこそ、自由主義、再興せよ』(2015)を書いている。

<独立自尊派の石橋に傾倒していった鳩山>
 辺野古問題について「普天間基地の辺野古への移転ではなく、最低県外」と断言し、政権を去ることになったこともあり、やはり外交が気になり、鳩山さんは、アメリカに敢然と立ち向かい、東アジア共同体を引っ下げ日本の党の自立を目指して政権をスタートさせていた。その一環で退陣後の自省の中で湛山に行き着いた違いない。
 いってみれば、湛山も鳩山さんもアメリカの言いなりにならず日本は独自の途を歩むべきという点で、全く一緒なのだ。こういう観点から半藤一利が『戦う湛山』(1999)を書いている。他に、井出孫六『石橋湛山と小国主義』(2004)、安原和雄『平和をつくる構想』(2006)も、多分この姿勢に一番共感を抱いたに違いない。

<長く続いて欲しかった鳩山政権>
 民主党が2009年8月の総選挙で大勝し、選挙で政権交代が実現した。これが細川政権と違うところだ。私は農業再生プランの作成を担当したこともあり、菅さんと親しかったが、やはり過激すぎた。その点で民主党の初の首相は鳩山さんが一番適任と思っていた。政治的実力からいって小沢さんこそふさわしいことはわかっていたが、あまりにも強烈すぎる。鳩山さんは民主党政権を落ち着かせてもらい、その後に2人のドギツイ首相というのが理想だったが、まさにその通りの滑り出しとなった。
 しかし、普天間基地の辺野古移転を巡り、「最低でも県外」という早すぎる正論が受け入れられず早期退陣となってしまった。私は当時財政金融委員会の筆頭理事であり、この件に何の関与もできず歯ぎしりしていた。多くを語るのはやめるが、鳩山さんには政権交代を見込んで主要省庁幹部との連携に向け私が手を差し伸べており、鳩山援軍態勢を整えて待っていたが、声がかかることはなかった。

<鳩山は自ら退き民主党政権の存続を図った大政治家>
3年3ヶ月の民主党政権、悪口を言われ続けている。世上、特に鳩山首相がダメだったといつも言われるが事実は異なる。鳩山さんこそ民主党政権を続けるため、小沢幹事長を道連れにしてさっさと身を引いて菅さんに引き渡したのだ。かつて病気になった政治家にさっさと去れと忠告したこともあり、湛山はすぐ退陣してしまった。この点もよく似ている。
ところが、他の2人の首相が自らの功名に走り、民主党政権の存続を蔑ろにしたがために、政権の座からずり落ちたのだ。私が2人の首相に政界にいる資格なしと言い放った理由はまさにここに存在する。その逆で、私は鳩山さんの党のために己を捨てた胸中がよくわかるので今も敬愛してやまない。

投稿者: しのはら孝

日時: 2023年8月21日 11:23