2023.12.11

農林水産

【多様性シリーズ①】 多様性(ダイバーシティ)のある社会が強い国を造る - 危機には思いがけない人が助けになる - 23.12.11

<LGBTQには頭が混乱するばかり>
 多様性(ダイバーシティ diversity)というと最近ではLGBTQの絡みで一番頻繁に使われる。性の多様性であり、女性に生まれながら男性としての気持ちが強く、女性として生きたいという人(逆の人もある)、同性の結婚、トイレの使用等で問題にされている。私は、ノンビリした田舎で育ったので、周りに男っぽい「オトコットリ」という渾名の元気な女性の同級生がいたり、なよなよして優しく「お嫁さん」と渾名がついた男性の同級生がいたりしたぐらいの感覚しかない。しかし、それが昂じて男(女)同士で結婚したり、性転換をしたりなどということは考え及びもつかなかった。正直言って今でもLGBTQの関係の問題は、頭がこんがらがってよくわからない面が多く、あれこれ論ずる知識は持ち合わせていない。ただし、結論は人様々であり、周りの社会がそうした人たちを許容していくべきだと考えている。

<生物多様性>
 多様性は環境の分野でも盛んに使われるようになり、生物多様性(biodiversity)条約も存在する。それは、絶滅危機品種が溢れかえり、このままいったら地球生命全体の危機につながるからである。だから30by30(2030年までに陸と海の30%以上を保全する目標)という標語の下、自然を維持することに世界全体で取り組むことになっている。気候変動防止も喫緊の課題だが、生物多様性の維持とセットで進めるべきものである。この点については、誰しも反対する人はいないだろう。ただ、相変わらず経済成長やお金儲けだけを優先する人たちがいるのには困ったものである。

<4分の1が同じ高校卒という異様な役所>
 次に使われるのは人材の多様性である。強固な組織には金太郎飴の人材ではもたないことから、簡単に言うとユニークな新人を採用したがる。
 いつか国会でも取り上げたことがあるが、身近な霞が関の某省の悪例を紹介しておく。中央官庁にはもともと東大卒が圧倒的に多い。1987年の事務系(法律、経済等)採用者24人のうち6人が首都圏の同一高校卒で占められた。大学同期で某省に行った友人が秘書課の採用担当者から「お前の後輩を6人も採用してやったぞ」と話しかけられ、喜ぶどころかぞっとしたというのだ。これでは国民の様々な要求を汲み取って政策展開していくことができないのがわかるからだ。多分、都会のそれなりに裕福な家庭でさしたる苦労もなく、すくすくと育って受験戦争を勝ち抜いてエリート官僚になったのだろう。同じような価値観を持ち合わせているに違いない。
 その友人は、私に「農林水産省はまさかそうなっていないだろうな。お前の所は、九州1名、中国1名・・・と指定して地方出身者を優先して採用したらいいんだ」と進言してくれた。

<若林元農相の慧眼>
 某省の友人の10数年前に農水省の大先輩、若林正俊・元農水相が、既に全く同じことを言っておられたので、私は驚かなかった。世の中、モノの道理がわかっている人がいるのである。農水省は他省庁よりもそうした気持ちが強いが、さすが最初から出身地を絞ってという明確な採用方針までは持っていなかった。 しかし、私自身が典型であるが、長野県の農家生まれ農村育ちを考慮して採用されたものと思う。14名の同期のうち、東京育ちは2名のみ、他は皆地方の高校出身だった。
 前述の件の友人は、少々荒っぽい役人だったが、それなりに出世していた。そして、次官を狙えるポストではなかったにもかかわらず、予想を覆して次官になった。私は、その見識を備えており、当然の結果だったと思う。某省の政策は4分の1が同じような育ちの官僚のせいか(?)代わり映えのしないワンパターンの政策だらけだが、この人事は秀逸だったと思う。

<農水省の多様性確保で生き長らえた篠原?>
 役所の同期は年次とともに大体同じようなポストに就いていく。私は入省14年目に各局庁の筆頭課(総務課等)の総務課長補佐となっていた。一番の役割は、局長と各原課のつながりだったが、剛腕局長は厳しい方で課長たちは恐れおののいていた。気の小さな課長は、局長室に入る時に深呼吸して入ることもあったし、局長がお呼びだと連絡すると「いないと答えてほしい、本当に今から出かけるから」といった具合である。
 私は当然、その局長には叱られっぱなしであり、時として数時間局長室で説教を受けることもあった(局長の時間を使ってもらっていると課長たちには変な感謝をされた)。罵声や捨て台詞は山ほどいただいた。
 局長は大体理に適ったことを命じていた。ただ私も含め凡人だらけの部下が理解できなかったりこなせなかったりするだけなのだ。ところが真っ正直な私は、「『局長、そうはおっしゃいますが』がお前の口癖だ」と言われるほどあれこれ反論しては、墓穴を掘って叱られる時間が長引いていた。
 その時「いいか、俺はお前のような役人を我慢して教育してやっているのだ。農林水産省が危機的状況になることもある。そういう時にはお前のような奴がひょっとして役立つかもしれないんだ。だから使ってやっているんだ」と叱責された。つまり、このパワハラ局長は30年以上も前に組織における多様な人材の必要性をわかっておられたのだ。

<日本の地方の旅館の朝食が1番>
 本当は、次号の日本社会全体の多様性の維持が必要だというのが私の本意であるが、その前にあまり問題にされない食生活の多様性についても触れておきたい。
 1976年から2年間ワシントン大学の海洋総合研究所に留学した。そこの水産の助教授が200海里体制の影響はどれぐらいかということで、稚内から枕崎まで日本の漁村を、詳しい期間は忘れたが確か3ヶ月か4ヶ月ぐらい調べ歩いた。助教授がワシントンに帰ってきたところ、私に近づき、やたらと親切になった。日本で受けた親切を返そうと思うが、周りで唯一の日本人の私に返すと言うのだ。我々日本人にはない発想である。
 そこで、好きな日本料理は何かと問うと、朝飯が一番だったという変な返事が返ってきた。朝飯はブレックファーストのことだと訂正させようとしたが「アサメシイチバン」は譲らなかった。夜は同じような料理を出されたけれども、田舎町の旅館の朝食がバラエティーに富んでいてこれに感動したというのだ。そこは学者で何種類使われているかと数え始めたら、20種類以上はほぼ出されていたというのだ。そう言われてみると、みそ汁にはいろいろな具が入っているし、漬物も違う、おかずもそう値段がはらないその土地のありあわせのものを使っているからどこでも違ったものだったのだろう。パン、コーヒー、よくてハムソーセージ、目玉焼き、スクランブルエッグ、野菜サラダといったワンパターンの欧米の朝食と比べて段違いなのである。
 日本は街並みも食事もともかくバラエティーに富んだ国だったのだ。それが今、アメリカにならったのか急激に失われている。

<アメリカの単作農業はいびつであり、日本型農業こそ正常> 
 私はアメリカの農業は不健全だと断じることができる。何故かというと、アメリカの農業が産み出している食事が健全ではないからだ。アメリカ料理などというものがあるのかどうか。アイダホポテトといっても、アイダホ州に芋料理があるわけではない。中西部における小麦、大豆、トウモロコシの単作の大規模農業は飛行機の上から見るとそれは見事である。しかし、そこでおいしい料理があると聞いたことはない。
 私がこのことを書いたら、今は亡き堤清二(詩人 辻井喬)は、アメリカはどれだけまずいか試してやろうという食べ歩きしかできず、旅の魅力が半減するとうまく表現してくれた。そして、日本型農業をとるかアメリカ型農業をとるか国民に問うてみたら良いとまでアドバイスをくれた。答えは明らかである。

投稿者: しのはら孝

日時: 2023年12月11日 10:50