2024.01.09

政治

篠原の小日本主義の軌跡ー24.01.09

 私は、大臣官房企画室にいた1980年代前半、日本がどうなぅていくか一生懸命考えていた。もちろん農業をどうするかというのが中心であるが、その延長線上で日本国自体の行く末に危機感を抱いていた。あまりにも経済成長を重視し過ぎ、自然を蔑ろにし、国民の心も病み始めているのではないかと思い始めていたからである。もっと他の生き方があるのではないかという疑問に答えを探すべくいろいろな本を読み漁っていた。

<1980年石橋湛山と出会う>
 最初に「小さい」に魅かれたのは『Small is Beautiful』(シューマッハ-)である。次官から要請され、英文を翻訳していたところ、面白いので仕事を忘れて先に読了してしまった。後で深い付き合いをする小島慶三(経済同友会幹事、参議院議員)が『人間復興の経済学』というタイトルで翻訳していたことを知った。もともとエコロジストの端くれであり、深い感銘を受けた。
 そしてそのすぐ後に更にショックを受けたが石橋湛山である。湛山モノで手に入るものを片っ端から読んで、『新小日本主義の勧め』というものを書いた。そして、それを農業関係のあちこちに書きとめたものと一緒にして本にし、タイトルを『農的小日本主義の勧め』とした。今回は湛山から学んだ後のその軌跡を年代を追って記しておきたいと思う。

<エコノミスト、朝日ジャーナルが拙論を相次いで取り上げる>
 1982年秋、当時土光臨調(第二次臨時行政調査会)が一世を風靡しており、国民経済研究協会の叶芳和(後の理事長)が日本の農業の改革案として、「5百万農家はいらず、5十万農家が、10万ヘクタールずつ耕せば良い」と書いていた。私がその反論という形で「21世紀は日本型農業で、長続きしないアメリカ型の農業」という論文を書き、「用水と営農」という土地改良の機関紙に掲載。これを見た週刊エコノミストが、その一部を「アメリカの農業の知られざる弱さ」というタイトルで掲載。
 朝日ジャーナルが、私と叶芳和との対談をしくみ、そこに野坂昭如が参入しようとしたが2対1になるので断り、私と叶の対談を読んで、野坂が後でコメント残すこととなった。このサブタイトルが「大きな農家か小さな農家か」で、私は当然小さな農家も捨てるべきではないということを書いていた。この当時からもう小さくても良いのではないかと言うことを言い始めていたのである。

<有機農業を推進し始める>
 そして小さな農業の一つの形態が有機農業であり、私はこれを推進することにした。
 その後、農業関係者に講演を頼まれることになり、週末に全国各地を飛び回り、全国の農民を中心に市井の優れた人と知り合いになった。私はいつしか、日本有機農業研究会から「霞が関出張所員」と呼ばれるようになった。しかし、その反対に廊下で実力派上司から「君は科学技術の進歩を信じないのか。おしゃもじババアと一緒になって有機農業などといって」と毒づかれ、出世コース(?)からははずれていった。

<「農的小日本主義の勧め」のユニークな読者>
 「新小日本主義の勧め」を脱稿。経緯は忘れたが、これが週刊東洋経済11月号に5ページにわたってこの小論が掲載される。32才まだ農水省の課長補佐の分際だった。
 1985年、拙書『農的小日本主義の勧め』が発行される。これに対して全国から手紙で反響が寄せられた。その中に、まだ国会議員になる前の筒井信隆(衆議院議員)がいた。自分と同じ考えを持っている人がいて安心した、と筆で書かれた立派な書簡であった。18年後の2003年、彼と同じ党の国会議員になるとは予想だにしなかった。最初から基本的価値観が一緒で、その後もともかくウマが合った。
 他の変わった読者では、自ら有機農業に挑戦している秋山豊寛(日本初の宇宙飛行士)がいた。TBSを辞め、すでに阿武隈山地で農業をやっていたがそこの小さな勉強会に来てくれというので、一泊で赴いた。もう1人同じような経歴でテレビ東京のニュースキャスターをやっていて、木枯らし紋次郎を演じた俳優中村敦夫が私の本を読み、私を師匠と呼ぶようになっていた。二人との名うてのエコロジストである。

<勉強会の講師に呼ばれ、賛同と酷評>
 1985年秋、これを見たいろんな人たちが反応示し始めた。どこかで知り合った出口治明(元ライフネット生命社長・日本生命)に、その当時流行っていた異業種交流会の講師として数カ所に引っ張り出された。同世代の出口は、湛山に傾倒した私の論に興味を持ったのだ。そして20数年後、売れっ子歴史評論家になっている。見る目のある人は若い時から異才を放ち、善し悪しがよくわかるのであろう。

 1985年秋、高村正彦(衆議院議員、外相・自民党副総裁)を座長とする勉強会「三金会」のメンバーとなり、そこの講師として新小日本主義の話をした。これに対し自見庄三郎(衆議院議員、後の郵政相)が「これは面白い。でっかい小錦のような男よりも、中肉中背が長生きするというのが篠原さんの言う小日本主義だ。国も同じなのだ」と賛同したが、メンバーの中で「150%間違ってる」と酷評したのが、小峰隆夫(経済企画庁)であった。こちらは今、経済評論家となり、いぅぱん受けのする解説をし続けている。意外と思われるが、「だいたいやねぇ」の竹村健一も参加しており、彼は賛同組であった。現都知事の小池百合子が竹村に常にくっついてきていたが、彼女の今の行動を見ると湛山の哲学はわからなかったのだろう。

<飛び付いた2人の編集者>

 1985年11月、日本経済新聞の今月の経済論壇において、当代の人気教授竹内靖雄(代表著書『正義と嫉妬の経済学』)が、「錯乱状態でとても支持されない」とこき下ろしていた。
 
 1986年 プレジデント社の村上編集者が、糸川英夫(ロケット博士・東大教授『逆転の発想』がベストセラー)と対談してほしいと言ってきた。理由は私の「新小日本主義の勧め」の主張と糸川の講演等で言っていることが全く同じだからと言うのだ。三和総合研究所の機関誌の編集者をしていたので、そこに長文の対談が掲載されることになった。
 片や物理学の泰斗、一方私は駆け出し官僚。活動分野では全く接点がないが、勘の言い編集者には共通点が透けてみえるのだろう。そういえば、その後私には物理学者が多いエントロピー学会(槌田敦・劭兄弟、室田武等)から誘いがあり、勉強会にも顔を出すことがあった。
1986年春、当時創刊して間もないThinkingと言う雑誌が、私の考えに共鳴し、特集したいと申し出てきた。その触りを書いて、そこに柿澤弘治(衆議院議員、外相)、石井公一郎(ブリジストン会長)等国会議員、財界、、学会、メディアからいろいろなコメントが寄せられたが、総じて否定的であった。

 1997年秋3年間のOECD代表部(パリ)勤務を終え、水産庁企画課長を拝命した。
 日本は資源へのアクセスがタダの遠洋漁業に乗り出した。つまり海なり魚の大日本主義である。その結果世界から嫌われ、第三次国連海洋法会議で、EEZ(200海里)が世界の潮流となったのだ。
つまり、海(魚)小日本主義の実践であり、アメリカに出稼ぎも行かず、満蒙開拓にも行かず、日本で働いて稼げと言う湛山の精神そのものである。EEZへの資源を持続性に配慮して有効に使っていく新しい法律を3年かけて成立させた。

<小日本主義に魅かれた先輩政治家が応援に駆け付ける>
 2003年秋、私は突如衆議院議員に出馬することになった。そこに真っ先に応援に駆け付けてくれたのは、中村敦夫参議院議員である。政界を引退し、重病を抱える武村正義も1回は必ず応援に駆け付けた。「小さくともキラリと光る国」は、私の著書に触発されてタイトルにし「小さくとも」を入れたと聴衆に紹介した。湛山の系譜に連なる政治家だったのだ。田中秀征も仕えた石田博英を通じて湛山に魅かれたのだろう、湛山の著書をものにしている。私は彼と同じ選挙区で後釜のような形で国会議員となった。日本が国連の安全保障理事国入りするに及ばすと主張するのは、多分大国主義に陥るなという湛山の外交姿勢を受け継いでいるからだろう。
 さきがけは、今思えばユニークは政党だった。小日本主義者が結集したといってもよい、武村、田中であり、井出正一である。今、湛山研究会の共同代表を務める岩屋毅も末席に名を連ねていた。岩屋は2023年またかつての血が騒いだのだろう。鳩山友紀夫は2017年『大日本主義を排す』でやっと湛山の小日本主義に気付いている。首相の時に唱えた東アジア共同体は、東洋全体、世界全体の繁栄を願った湛山そのものの考えなのだ。
 名は伏せるが、この時今野党側ならリーダーになっている若手政治家もさきがけにいたが、彼等は政治家になりたくて新しい党に入っただけで、湛山思想は何一つ受け継いでいないようだった。自分の政治的野心が優先する、大政治家主義に陥ってしまっているのかもしれない。

<思いがけず衆議院議員となり、早速小日本主義が縁の秘書がくる>
 2003年11月、60人の新人議員を菅直人代表が集めて、ささやかなパーティーを民主党本部で開催した。その翌日、芳野正英(同期議員の泉健太の秘書)が突然訪ねて来た。学生時代に「農的小日本主義の勧め」を読み、それに相当感銘をうけたという。芳野曰く「見覚えがある篠原孝の名前があったが、あんな過激なこと書く人は国会議員になっているはずがないと同姓同名の人がと思っていたら、同人物だった」。「ぜひ篠原代議士の下で政策の勉強をさせて欲しい」と申し出てきた。私は「泉代議士困るんじゃないの」と言って突き返した。案の定事務所を立ち上げた数ヶ月いてくれと言われ、その後私の秘書となった。政治家という確固たる目的、つまり大きな国ではなく、小さくとも現場がいいといって地元三重県の県議となったが、岡田克也に参議院選挙に引っぱりだされ落選し、まだ目的達成に至っていない。

<教授(博士)の集まり縮小社会研究会に呼び出される>
 2015年秋、京都大学の縮小社会研究会(松久寛代表・元京都大学工学部教授)から、突然私への講演依頼があった。彼らは2008年から勉強会を始めたが、驚いたことに、自分たちよりもずっと遥か彼方昔に、全く同じようなことを考え本にし、かつその男が国会議員になっている。そいつの話を聞いてやろうと言うことで、招聘したという。そこで土曜日の夕方、久方ぶりに母校のキャンパスに赴き、教授たちを前に久方ぶりに考え方を述べた。京都の同僚議員たちも空いていたら来たらとメールを打ったが、誰1人来なかった。
 余談になるが、この時の連絡をきっかけに直後に前原誠司元代表と久しぶりに一献傾けた。後々に前原の代表選出馬に当たり、実質的に私が推薦人を取りまとめ、彼を10年ぶりに代表の座に導くきっかけを作っている。但し、民進党を潰すことになってしまい、責任を感じている。

<鋭敏な政治部記者の進言>
 元毎日新聞の辣腕政治部記者 倉重篤郎(編集委員、政治部長)が、私に取材に来た。その当時私は野党統合を密かに画策していたので、そのことかと思ったら全く違っていて、縮小社会研究会の公園に触れたブログを読んで、これを民主党(民進党)の、アベノミクスに対抗する経済政策の柱にしたらどうだという進言だった。尚、倉重記者の前に同じ毎日の先輩の鈴木棟一記者は、私の論に興味を示し、彼の主催する朝食会「社稷会」で2度ほど公演させられ、そのうち1度は当然小日本主義の話だったが、聴衆の政治家や財界人が、どれだけ共感をもってくれたかよくわからない。

<まじめな古川禎久との出会い>
 2018年、廊下で古川禎久衆議院議員から「篠原さんの本を学生時代に読んだことがあるのです。その本持ってるんですがいつかサインを欲しいんです」がと声をかけられた。それまでは1度も話したこともなかった。
 その秋、大島理森衆議院議長から議長公邸に委員長を労う会に招かれていた。隣の隣に座ったのがその古川禎久法務委員長、そして私は懲罰委員長だった。大島議長は農林議員でかねてから親しい仲だったが、全員に酒をついて歩いて、私の所へ来たときに「篠原の懲罰委員会は開かれず何も苦労してないからパス」と言って冗談を言って酒を注がなかった。その時にもまた古川議員は同じことを述べていた。

2022年12月、月刊日本(主幹 南丘喜八郎)が石橋湛山没後50年となる23年は石橋湛山を1年間追いかけるといい、23年1月号のインタビューを受けた。3人の他の皆さん(中島岳志、伊藤智永、古川禎久)とともに1月号に掲載された。今回の湛山ブーム(?)のきっかけを作ったことになる。

<野党の研究会設立>
 2023年3月、私といろいろな行動をともにしている小山展弘(衆議院議員)が、かねてから石橋湛山の研究会やりたい、自分が事務局長をやるからとせかされていた。そこで、私が会長、小山が事務局長で野党だけの「石橋湛山議連」を始めた。最初に増田弘教授(石橋湛山研究学会会長)、次に鎮目雅人早稲田教授に講師に勉強会を始めた。

<古川の熱意で超党派議連に衣替え>
 2023年4月、本会議場で古川議員が「自分も同じことを考えていた。自分たちも入れて、できれば超党派でやっていただきたい」と申し出てきた。あまりありえないことではあるが、もともと南丘等からも超党派にと勧められていたので、超党派に衣替えして運営することにした。6月には超党派の議員連盟として、岩屋毅(自民)、篠原孝、古川元久(国民民主)の3人の共同代表で発足し、リチャード・ダイク氏(日本研究者・エズラ・ボーゲル氏の弟子)を第一回目の講師として再開した。第二回目 孫の石橋省三、第3回目 藤原帰一(千葉大教授、元東大教授)が講師となった。
 朝日新聞、東京新聞、サンデー毎日等で石橋湛山研究会を取り上げ、本家東洋経済が「没後50年今なぜ石橋湛山か」の創刊記念特集号(11/15)を組んだ。
湛山の思想を21世紀の政策に活かさなければならない。

投稿者: しのはら孝

日時: 2024年1月 9日 14:38