町政70周年を期に小布施に北信州の観光をリードしてほしい-北信州の風土を観光に活かす― 24.12.10
<何の変哲もない町だった小布施>
小布施は、長野県の77市町村で一番面積の小さい地方自治体である。しかし、知名度は1番と言わないまでも、ちょっと地域作りなり地方の活性化に携わった者なら誰もが知っている。なぜか。
有名な神社仏閣が多くあるわけでもない、飛び切り風光明媚な地域というわけでもない。小布施の皆さんには悪いが、名所としては葛飾北斎の天井画がある岩松院があるぐらいである。松代のあまたある名所旧跡と比べたら小さいものである。また町並みも周りの景色も日本の地域のどこにでもある、何の変哲もない町である。
私は1965年4月から1968年の3月まで、小布施を通る長野電鉄線で中野北駅から本郷駅まで乗り、長野高校に通った。多分、小布施で途中下車したことは一度もなかったと思う。後に親密な付き合いをする市村次夫(栗菓子の小布施堂社長)や中山修弁護士が小布施から通っていたはずだ。中野まで乗る中高地区(中野、下高井)の者とは親しくなったが、須高地区(須坂、上高井)の者とはそれほど交流がなかった。多分、中高と須高とは別という変なセクショナリズムがあったのかもしれない。
<1970年代から80年代にかけて大変身を遂げる>
ところが、私が北信州を出てしばらくして、小布施の名は徐々に知られるようになっていった。昔から栗羊羹屋御三家(桜井甘精堂、小布施堂、竹風堂)があり、そこそこ知られていたが、アメリカ人のセーラ・カニンガムさんの発想を採り入れた小布施ミニ・マラソン等もあり、一気に地域おこしの顔になっていった。1976年の北斎館、1987年の高井鴻山記念館の開館を機に、こうしたことを引っ張った唐沢彦三町長、そして全国を飛び回った市村良三町長と2人の傑出した町長の功績も大きいが、町民全体が一丸となって、おもてなしの精神を持ち、観光客をありのままに受け入れてきたことが一番だろう。
その典型が、オープンガーデンである。立派な〇〇公園ではなく、町民のごく普通の庭を観光客の皆さんにも開放したのである。観光客が個々のお宅の小さな庭の散策を認めるのもだが、町屋や農家がプライバシーの侵害のおそれや庭園の木々や花壇の損傷も気にせず、こぞって迎え入れたのである。入館料もないし、観光税もない。土産物屋、食堂等でなければ直接的なメリットはないにもかかわらず遠来の観光客に「ほのぼのとしたもの」を提供したのである。
<小布施を見本とせず消極的な対応をする周りの市町村>
小布施にだけ観光客がたくさん来るので、長野から中野や飯山に行く時は、小布施の町を通らないで行くことにしていた。高校通学の時には気づかなかったが、小布施近辺で見る北信5岳(斑尾、妙高、黒姫、戸隠、飯綱)は、見事であり、特に夕日に照らされて、くっきりと等間隔に並ぶ風景は絶景である。だから私は近隣の市町村に、小布施と連携して、こちらにも来てもらったらと余計なアドバイスをした。
ところが、私はその答えに仰け反った。「篠原さん、馬鹿言っちゃ困る。小布施のように、あんなにぐちゃぐちゃと観光客に来られては迷惑だ」と言うのだ。そんなに観光客が来ているわけでもないのに、オーバーツーリズム(その頃はこんな言葉はなかった)になるのは嫌だと言うのだ。私はこの気持ちがわからないでもない。しかし、それでは地方にお金が落ちないし、交流も生まれない。どうも閉鎖的体質があるようである。
<山陰の小京都 津和野町もいい見本>
私は学生時代(1972年)、近しい友人との卒業旅行で、既に有名だった山陰の小京都・津和野を訪ねたことがある。綺麗なせせらぎが町中を流れており、泳いでいる魚が、歩道からくっきりと見えた。小布施と同じように、羊羹屋があった。信州の切り立った山々と違い、丸いなだらかな山々が、今風に言えば癒しを与えてくれた。金欠学生であり、旅行などこの1回だけだったが、それこそとりたてて特徴のない津和野が妙に心に残っている。
その後、農林水産省で仕事をすることになり集落営農が始められていたが、その先駆的な事例が津和野の奥賀野地区にあり、代表の糸賀盛人さんとは親しい友人となり、数回訪れている。下手に観光地化することもなく、多分50年前と雰囲気はほとんど変わらないと思う。
津和野は、人口6,875人、年間訪問者約100万人。それに対して小布施は、1万976人、年間訪問者約100万人とよく似ている。二町とも静かに昔ながらの風情で観光客を迎え入れているのは共通である。
<中野市の宝、高野辰之と中山晋平、そして久石譲>
こうした中、少々悲しいのは、私の地元中の地元「中野市」である。日本の美しい地方を叙情溢れる言葉で表現した高野辰之と地元の美しい景色をメロディにした中山晋平は、中野市の生んだ芸術家・音楽家である。高野辰之作詞の「故郷」、「朧月夜」、「もみじ」、「春が来た」、「春の小川」等、皆が小学生の頃から口ずさんでいる。一方、中山晋平の「シャボン玉」、「てるてる坊主」、「あめふり」、「証城寺の狸囃子」、「うさぎのダンス」、「東京音頭」、「カチューシャの唄」、「ゴンドラの唄」等も多くの人が知る日本の代表的歌曲である。今現在で言えば、作曲家久石譲も中野市出身である。つまり、中野市には日本人の音楽や歌のふるさとという宝が揃っているのである。こんなことを言っては悪いが、中野には小布施に負けず劣らず観光客に来てもらえるであろうはずのネタがずっと多くある。3人の芸術家は北信州の風土が生んだのだ。ところが、中野市がそれに気付かず宝の持ち腐れになっている。
蛇足だが、高野辰之の歌はほとんど鳥取の生んだ作曲家、岡野貞一の曲である。この縁で超党派の「菜の花議員連盟」会長は石破茂首相、私が幹事長で活動している。
<宝物を活用しよう>
カチューシャの唄の結ぶ縁で、中野市、長野市(松井須磨子の出生地)、新潟県糸魚川市(作詞の相馬御風)、島根県浜田市(同じく作詞の島村抱月)との4つの都市の間では、自治体や市民団体による「知音都市交流」なるものが行われている。4年に1回主催地が回ってくる。
長野電鉄線で親しい友となった青木一が10数年前に中野市長をしていた頃、私もゲストとしてその会合に出席した。ところが、そのパンフレットの裏表紙を見てガックリしてしまった。長野県の地図に、中野市の位置が印されていたのはいいとして、「北に『スノーモンキーで有名な山ノ内町』、『南に葛飾北斎で有名な小布施町』」と記され、「その二つの町に挟まれているのが中野市」と紹介されていたのだ。私はあまりに情けないと嫌味の挨拶をしてしまった。多くの出席者には顰蹙を買ったと思うが、私のいつわらざる心境であった。言ってみれば、嫌われる勇気を出して奮起を促した。中山晋平を描いた「シンペイ-歌こそすべて」の映画もまもなく公開されるが、未だ持って何の動きもない。
2016年には、平成天皇ご夫妻が、高野辰之記念館に来られた。それだけの価値があるのだ。
<小布施を先頭に北信州に客を呼ぶ>
地域作りの好例があるとよく先進地視察が行われる。数か月前に私が視察に行ったLRT(路面電車)の宇都宮市には年間250件の視察があるという。北信の市町村は遠くに行かなくともすぐ隣に小布施がある。学ぶべきことは山とある。
山ノ内町もスノーモンキーの前に志賀高原がある。飯山以北には雪という財産がある。その前に北信州は果物の宝庫である。売りはいくらでもあるのだ。
かくなるうえは小布施に引っ張ってもらって、北信州にもっともっと観光客が来てくれるようにしてもらわないとならない。