農水省の快男児・高木賢弁護士(元食糧庁長官)を追悼する-高木さんは、私が難局に陥った時の心の支えだった-24/12/16
私の敬愛する農水省の五年先輩が亡くなった。個人的な思い入れで誠にすまないと思うが追悼文を皆さんにもお届けしたい。このような志高く、情に厚い国士的官僚が、今の時代にも存在していたことを知ってほしいからだ。
<潔い退官>
余命いくばくもないとわかってから高木さんは手記をまとめている。生まれてすぐ養子に出されたことから始まり、若かりし頃の初恋沙汰(?)まで赤裸々に書かれていた。高木さんの率直さがそのまま表れていたが、肝腎の意外な食糧庁長官での退官に触れていない。
ここからは私の推論であり、他の隠れた事情があるのかもしれないが、米政策を巡り、信じがたい粛清人事が行われていたのは紛れもない事実である。食糧庁次長は辞め、エリートコースの一つだった総務部長も省外に出され、関係課長も左遷されていた。それを自分一人が残れるかという美学が働いたのだろう。次官待機ポストなのにならなかった。この潔さを朝日新聞が紹介していた。
高木さんは司法試験も通っており、50を超えてから2年間の司法修習をし、弁護士という独自の途を選んだ。手記によると、ある程度仕事を成し遂げてからは、退官のチャンスをうかがっていたという。つまり、最初から人生二毛作が念頭にあり、天下り等で農水省の世話になることはなかった。
昔からダメなものはダメというはっきりした役人だった。労働省に出向した折、今でいうひどいパワハラ課長に対し、やっていられないとして農水省に帰して欲しいと申し出ていた。若い頃から肝のすわった人であり、普通の人にはできることではない。
<下り坂産業を支える>
私が入省したときは、次官が「農水省の仕事は、農業という左前の産業を支えること。下りのエスカレーターに乗って、階段を上がっているようなものだ」と話されたことを覚えている。華々しさなどなく、それこそ苦難の行政である。かつて独立した局まであった生糸関係は、衰退したものの繭糸三課があった。「下り」の典型例である。
苦労をものともしない度胸のある人だからであろう。風前の灯であった養蚕業界に関係する筆頭課長で、なだらかな幕引きをさせられた。その時には不退転の決意を示すべく頭を丸めて仕事をするようになった。つるつるした坊主頭はそれだけで鬼気迫るものがあった。これも見事にやり遂げている。
私が国会議員になってからTPPに反対し、STOP TPPのバッジと反TPPのネクタイを4年間し続けたのは、この時の高木さんを真似たものである。
<私のアイデアにも理解を示す>
それまで遠くから眺めていただけだったが、初めて仕事上の接点が生まれたのは、1995年私が3年間のパリ(OECD代表部)勤務を終えて帰国した後である。高木農産園芸局長から電話があり、私がパリから送った建白書の話を聞きたいというものだった。
ウルグアイラウンドの決着に当たり、米ばかりを悪者扱いせず、むしろ輸入に頼りっぱなしの麦・大豆・ナタネ・そば等の主要穀物や油糧種子を作ることを前面に出して、自給率を高めること、それと同時に、米と麦は食管法上同列に扱われているのでミニマム・アクセスは2つを大きな括りにすれば小麦の大半は輸入しているので、米のミニマム・アクセスの輸入を免れる、ということを書き留め、ごく小人数の幹部に送りつけていた。日本中を大騒ぎさせている米問題についてこんな際どいことを活字にして(ワープロで打っただけ)送ってきたと激怒し、もう農水省には戻さないとまで言い出す幹部がいた。
そうした中、高木局長は数年後に局長室の棚の片隅にあった私の建白書をみて、興味を示し、転作を「本作」と名前を変えて取り組み出した。
前述の「大きな括り」というのは、驚いたことにEUが食肉全体を一括りにして、羊肉を大量に輸入していたことから牛肉や豚肉のミニマム・アクセスを免れていた。残念ながら国際関係で私の説を理解して実行する幹部はいなかったが、高木さんは国内対策では私の進言を採用したのである。
<政界絡みのトラブル>
部下の課長補佐が佐賀市長選に出馬することになり、辞職手続きで次官を巻き込んで揉めたことがある。秘書課長が、辞職願を出す前に辞職を承認する貼り紙を貼り出してしまったが、すったもんだしたものの、めでたく全国最年少県庁所在地市長になった。
ところが、1か月後法務委員会で佐賀県選出の陣内法務政務次官と秘書課長が上記の件で糾弾されてしまった。高木官房長からは「篠原、テレビを見ろ、お前の教育が悪いから、市長はペラペラしゃべって秘書課長はとっちめられている。これから取材が行くが一切喋らすな」という命令が届いたので、登庁2日目の佐賀市長に電話をしたが、「あのフライング貼り出しをもとに中傷ビラを作られ、どれだけ屈辱を味わったかしれない」と聞き入れなかった。次官や秘書課長は私が外に喋ったと誤解していたが、高木さんは、私が農政のご高説は喋っても、内部の機密など話さないことを分かっていた。
<優しい人をみる眼>
それから数ヵ月後、私は局のNo.2の指定職から、かなり格下の農業総合研究所の研究調整官に左遷された。当時(1999年)にはめったになかったことである。
ただ、数か月後所長となった。そこでまず名前を農業総合研究所から農林水産政策研究所に衣替え、大学との双方向人事交流、OECD事務局との人事交流、日中韓3国の農政研究所長会合の定例化、次長の指定職格上げ、研究と行政の一体化を名目に、郵政省が出た跡に分室の設置等、他の人のやれない改革を次々に断行した。高木官房長と城知晴総括審議官が粛清好き(?)の次官を気にせず支援してくれたおかげである。この時は、「今沈滞気味の農水省に2人だけ元気なのがいる。次官ともう1人はお前だ」と、変な激励をされたことを覚えている。
余談になるが佐賀市長は、上記の一件をすまないと思ったのか、後から政界入りした私の衆議院議員選挙では応援に長野まではせ参じ、数泊してカラスとしてマイクを握っただけでなく、証紙貼りといった雑事に夜中まで汗をかいてくれた。そして今も「個人献金」を続けてくれている。
<誰にも優しく好かれる人>
高木さんは言葉はちょっときつかったがユーモアもあり、皆に愛される役人だった。だから、島根県農林水産部長に出向した時も、私が昔から知る農業関係者がこぞって高木さんのファンとなった。退官後も、農政を忘れることなく、農業関係法の著作もモノにしている。長らくOB会のまとめ役を務めていた。情に厚い人で、同期の熊沢英昭元次官の刑事事件の弁護活動にも必死で手助けしていた。
ところが、私の心の支えでもあり、陰になり日向になり助けてくれた高木さんには何の恩返しもしてなかった。それどころか、同姓の幹部と区別するため、失礼な渾名をつけてしまい、それが結構広まり不愉快な思いをさせてしまったのではないかと深く反省している。ただ、今回の意を決した冒頭の手記は一気に読み切り、相当念入りな感想ないしはコメントを送った。私のせめてもの恩返しのつもりだった。それについて電話で話が弾んだ。しかし、顔はみないままでお別れになった。
自ら切り拓いた途を平然と歩む高木さんも寄る年波と病気には勝てなかった。ご冥福を祈るしかない。