令和7年 新年のご挨拶 地元新聞への寄稿
【北信ローカル寄稿】
身近な水田が消える日は近い
世の中の変化にはめまぐるしいものがある。AIとか通信機器とかドローンのことを言っているのではない。我々の身近な光景である。それは大都市や道路や新幹線網は変わるだろう。しかし、私はそのことを言っているのでもない。この北信州の見慣れた景色が忽然と変わることを心配しているのだ。
典型的な例をあげると、50年前にはどこにもいた鶏・豚・山羊・羊・水牛の家畜が今ではほとんど見ることがなくなったことである。1964年の東京オリンピックの頃はどの農家にも鶏小屋があり、家畜もたくさんいた。ガーデントラクターの出現とともに牛が消えた。そしていつの間にか豚小屋がなくなり、山羊・羊もいなくなり、鶏小屋もなくなった。それとともに堆肥の山も消えた。僅か50年の間にこれだけ変貌を遂げた農村はないのではないか。
その前に日本の富を支えてきた生糸産業が左前になり桑畑がなくなり、りんご畑が取って代わった。同じ頃、春先には山麓はもちろん田んぼも真っ黄色に染めた菜種もそれこそあっという間に消えた。高野辰之が「菜の花畑に入日薄れ見渡す山の端霞深し」と謳った美しい彩りがなくなったのである。
私は憂いている。今後20年の間に水田がなくなってしまっているのではないかということを。多分延徳田んぼと飯山の北部は残るだろうが、それ以外の地では二束三文の米作りは精を出す人がいなくなってしまうだろう。こんなことを放置する農政は絶対に転換しなければなるまい。石破茂首相は、羽田孜さん以来30年振りに農林水産大臣経験者の首相である。石破農政に期待するしかない。
【長野経済新聞寄稿】
長引く円安を機会に国産を使う方向に舵を切るべき
円安がしばらく続いている。政府は今までも度々円高対策を講じてきているが、円安対策はほとんど講じてきていない。いやガソリン価格高騰に対する補填をしているではないか、電気代・ガス代への補助もしているではないか、といった反論が出てくるが、単なる弥縫策にすぎず根本的な解決には至っていない。
円高になると日本製品が売れなくなり、自動車産業をはじめとする輸出産業は大打撃を被る。それに対して、円安になると自給率が38%しかなく大半を輸入に頼っている食料品価格は高騰する。円安がもたらす物価高は一般国民の生活を直撃し、エンゲル係数は29%と過去43年間で最高に達している。
消費者にメリットが及ぶガソリン価格補填はその意味である程度是認できないではない。しかし、COPが世界最大の国際会議となり、世界中がCO2の排出を抑制しようとしているのに、逆にガソリンを今まで通り消費するというのは不謹慎といえよう。なぜなら、日本の大洪水にみられるように地球温暖化はもう人間の生命まで危機に晒しているからだ。
産業界では原料を専ら海外に頼る業界は原材料価格が高騰し困るが、製品を製造して輸出すると多く売れるので、その時点で利益を上げることができる。それに対して輸出が絡まない業界、すなわち売り先が国内に限定される業界は円安が進むにつれ厳しい局面に立たされることになる。その1つが建設業界である。
建設業界よりもっとひどいのは、飼料穀物の大半を海外から輸入している畜産業界である。日本の畜産は、原材料をアメリカ等から輸入し、それを農家が加工して、卵、肉、牛乳にしている産業である。工業との違いは輸出がなく国内消費が大半である。建設業界は少なくとも木材は価格は別として十分に自給でき、国産材への転換もできないではないが、狭い日本では人間の食料生産だけで手一杯でとても安い家畜の餌など作る農地もないし、採算が合わない。
このピンチを奇貨として、畜産に限らずなるべく国産のものを使っていく方向に舵を切り替える時期に来ているのではないか。
【長野建設新聞寄稿】
年収の壁の議論は的がどこかおかしい
日本国憲法には国民の3大義務が書き込まれている。教育の義務(26条2項)、勤労の義務(27条1項)、納税の義務(30条)である。
2024年の総選挙で国民民主党が「手取りを増やす」とSNSを中心に訴え、年末までの政界の話題を独占した。いわゆる「年収の壁」「103万円の壁」である。
しかし、私はどこか間違っていると思う。103万円の収入を超えると親の扶養控除から外れ、親が10数万円税金を多く支払わなければならなくなる。本人も税金を納めないとならなくなる。だからそこで働くのをやめる。いわゆる「働き控え」である。これが労働力不足に拍車をかけており、その意味でも壁をもっと高めにして欲しいというのだ。
一方で高収入の者や高収益をあげている企業から税金を多く徴収すべきと言いつつ、低所得者はもっと税金を納めなくていいようにというのは虫がよすぎるのではなかろうか。多く働き給料を多くもらったら、それに応じて税金を納めるのが万国共通のルールである。前例で言えば、150万円のアルバイト料になって税金を多く納めても、それこそ手取りが多くなればそれでよく、雇用主も学生アルバイトも満足すべきではないのか。親が余計税金を納めるようになっても、子供が多く稼いで手取りが増えたならそれで喜ぶべきことではないか。
どうも日本の論理は国民に甘く一方的すぎるような気がしてならない。もっと原点に立ち返って、素直に生きる日本人でありたいと思う。