2025.03.26

【私立高校無償化シリーズ③】日本は小中高の公教育と大学への投資を充実すべし-今の経済を支える半導体産業よりも次世代への人的投資を優先すべし-25.03.26

 私が教育制度については専門外であるにもかかわらず色々論ずるのは、今回の私立高校無償化は決め方もさることながら、安定した地域社会が崩れていく蟻の一穴になるかもしれないと危惧するからだ。
 よく言われるが、日本の政府支出に占める教育予算は8%で、OECD加盟36ヵ国の中で下から3番目に低い。要は金を惜しんでいるのである。

<フランスでは教育は無償が原則>
 フランスの大学も大半が国立大学で、無料で授業料はとらない。ドイツ、ノルウェー、アイスランドも同じである。教育に自由主義を貫徹したら乱れる。フランスではないが、平等に徹すべきだと思っている。その理由を私の実体験からフランス、アメリカと比べ、また私の学生時代と比べて論じてみたい。

見習うべきこと① 誰もが同じ小・中・高に行く学区制:
<学区制まで徹底しているフランスの独自の学校システム>
 私はブローニュの森に隣接する16区のアパートに3年間住んでいた。先輩諸氏から引き継いだだけで、よく知らなかったが高級住宅地区だった。すぐ近くにジスカール・デスタン元大統領(ミッテランの前の大統領・共和国連合)の家系が歴代住むアパートがあった。(パリのペリフェリックと呼ばれる環状道路の内側には)一戸建ての家はなく、皆アパート暮らしである。当然小・中学校も生まれた時からその居住地のどこに行くか決まっており、高校も日本風に言えば完全な学区制がしかれている。一つの高校に様々な職業科もあり、その学区の者は皆同じ高校に通うことになる。これが生徒が私立に流れる一つの要因となっている。
 つまり日本と違うところは、望めば全員が同じ高校に入学できるということだ。公立に行けないから仕方なく私立に行くという状況はないので、ミッテランは富裕層が私立に行くのに援助は要らないと言い切れたのである。


<生まれた時からバラバラの都会>
 中曽根政権の臨教審で、やたらと教育の自由化が叫ばれた。品川区は小学校の学区制をやめ、どこの小学校に入っても良いことにした。私は農林水産省から臨教審に出向させられていたが、荒っぽい議論とその結果に腰を抜かさんばかりに驚いた。曰く、ダメな小学校には生徒が行かなくなり(親が行かせなくなり)、競争原理が働き、教育の質が改善される、というのだ。
 一方、私の小学校時代、両親が同級生同士というのが3組もいた。ほとんどがお見合い結婚で、跡取り息子が2~3歳下の嫁をもらうが、偶然妻たちも近くの同じ小学校の同級生だったのだ。このような親密なつながりが出来上がっていたのだ。
 しかしながら、小学校からバラバラというのでは、人によってはよって立つ居場所が見つからなくなり、孤独に陥っていくのではなかろうか。だからひきこもりが増え、孤独省が必要になってくるのだ。やはり、多くが知り合いのぬくもりある社会が、人にとっては不可欠なのではなかろか。田舎社会では、学校の区切りが農協(支部)や消防団の区切りに直結する。だから、そう簡単に学区をいじくれない。
 日本の商店街はズタズタに引き裂かれ、シャッター通り化し、安っぽい全国チェーン店ばかりがのさばる味気ない街になってしまっている。農村は過疎で人がいなくなり、郊外のアパート中心の住宅地は、毎年10~20%が引っ越していく。どこもかしこも人のつながりが希薄になっているのだ。
それに対してフランスでは、小さな個人営業の店が健在である。例えば3ッ星レストランに全国チェーン店などない。逆にアメリカは、ジャンクフードの全国いや世界チェーン店ばかりである。あろうことか日本はアメリカを追いかけるという愚行に走っている。

<多様性を肌で感じることのできない似た者同士ばかりの私立小中高校>
 自分と同じ経済レベル、学力レベルの人たちしか周りにいないという環境のみで育った人からすると、様々な悩みやしがらみを抱えた人たちの存在は、TVや小説で知っても実感がわかないのではなかろうか。人は皆それほど賢くないので、やはり生の体験から学ぶことが多い。幼少の頃から等質的閉鎖社会で育った子供は、他者への共感といったことにも鈍感な人間になってしまうのではないか。
 それに対して、フランスのパリは大都会だが、シャンゼリゼ通りからちょっと奥まった路地を行くと近隣と同じ階数のアパートがあり、親子代々住んでいる所が多い。確かめてないが、多分ジスカール・デスタン家は今も同じアパートに住み続けているのではないか。
 つまり、大都会にも田舎と同じく、ガッチリした伝統的社会が脈々と続いている。

見習うべきこと②大学こそ無償化
<私の60年前の赤貧大学生活>
 半世紀以上前、つまり団塊の世代の私が学生の頃は、国立大学の授業料は月1000円、年1万2000円だった。京大食堂のかけうどんは25円、カレー45円。私はうどんが好きだったこともあり、大体かけうどんで済ませていた。三畳一間の木造2階建ての下宿の家賃は、それほど高くなかった。先輩から500円で譲り受けたオンボロ自転車に乗り、10分で大学に通っていた。
近くの郊外寿司レストラン(寿司屋ではない)で皿洗いのバイトを始めた。残りの寿司で夕食を済ませ節約することもできた。夏休みは長野まで帰省して農業の手伝いをしたが、春休みは京都の中心街の老舗旅館でお膳運びと布団敷きと布団畳みの住み込みでバイトをしていた。
だから、親の仕送りはほとんどなく済ますことができた。遊び方を知らなかったので勉強するしかない充実した(?)学生生活を送ることができた。

<大学の授業料こそ値下げすべき>
 半世紀前と比べて生活費はずっと高くなった。東大は20年振りに授業料を10万7000円値上げして、64万2900円にするという。半世紀前の50倍である。最近話題のコメの値上がりどころではない。日本の教育は、高校だけを優遇し、大学をそれこそ虐げていじめているとしか思えない。この甚だしい矛盾に関係者は何とも思わないのだろうか。論理的には全く辻褄が合わず、狂っているとしか言いようがない。また、中高一貫校の私立で、高校だけ無償化したが、義務教育の中学やその下の小学校はどうなるのだろうか。どうもそのままのようだ。不公平やチグハグばかりが目立つ。

 だからといって、私は大学まで無償化を主張するつもりはない。無償化は実質99%も行く高校までで十分である。大学は、高校を卒業して働いている人がいるのに、片方でその人たちも納める税金で、一部の同世代(60%)の人が勉強し、後に高給を得るようになるというのは不平等である。ただ、今の国立大学の授業料はいくらなんでも高すぎると思う。それに加えて、都市部にある大学の生活費は相当かさむ。

<大学は都市にある必要はなく、地方に設置すべし、いや移転すべし>
 大学は大都会にある必要はない。今頃23区内の大学の定員を抑制するなどといっても焼け石に水である。
 工場を地方に持っていこうとしたが、大半は失敗に終わっている。そして今も続く人口減少、過疎である。なぜなら、企業はもっと人件費の安い東南アジアや中国に行ってしまったからである。
 かくなる上は、地方への移転は大学ぐらいしかないと思うが、全くそのような気配がない。大都市はただでさえ人が集まっている。大学生までいることはない。

<出世払い型奨学金で全学生を援助すべし>
 それならば、低所得者の行ける国立大学に援助することとし、授業料を思い切って下げるべきである。そうでなければ親の所得に応じて授業料は減免し、なおかつ出世払い型の奨学金をドッサリ用意することである。
 50年前のアメリカは親が面倒をみるのは高校生までで、大学の学費を親に出してもらったら、その後返済するのが一般的だった。日本と比べてドライで、あっさりとした親子関係に驚かされた。就職後の奨学金の返済が肩にのしかかってくる者も多いと聞く。それはあまりに可哀相なので、一定の所得以上になるまで返済は猶予してやるべきだろう。かくして学ぶ意欲と能力のあるものは救われることになる。

 私立高校の授業料の無償化の前に、国がやることは小中高の公教育の充実と大学への投資である。

投稿者: 管理者

日時: 2025年3月26日 15:36