2025年参院選 篠原応援報告25.07.29
当然ながら、長野地方区の羽田次郎選挙に全力傾注した。これは当たり前のことなので省略し、他の選挙活動について報告する。(敬称略)
<山口県の選挙の公認で迷走を続ける立憲民主党本部>
私が真っ先に応援に行ったのは、山口地方区の戸倉多香子候補(元県議)である。2023年春、私が仕組んだ平岡秀夫のカムバック補欠選挙(山口2区)で、信じられないことだが、立憲の党本部は公認も推薦もしないことになってしまった。そこで私の地元の秘書2人を1ヶ月送り込み、私自身も半月岩国に陣取った。その数ヶ月後の24年の本選挙では公認され、国政に12年振りの復帰ができた。そうした中、必死で頑張って支えてくれたのが戸倉県議だった。
<筋を通した活動を続ける戸倉候補>
地元で平岡を支え続けた戸倉候補は平岡支援のおありで、原発への反対姿勢が気にくわないと連合の一部から意地悪をされ、26票差で県議選に敗れるという憂き目に遭っている。
そして今回の参院選出馬である。相手は裏金に統一教会と2つも立派な負(?)の勲章を掲げた北村経夫参議院議員。立民山口県連が公認申請をしたにもかかわらず、党本部は23年の平岡補選と同じく、戸倉候補を公認も推薦もしなかったので仕方なく無所属の出馬になった。平岡県連代表は当然戸倉候補を最後まで支援し続けた。
実は2017年に何度も戸倉候補の声を聞いていたのだ。前原民進党代表が突然小池百合子都知事の希望の党と手を握り、後回しにされた参議院民進党は大混乱に陥っていた。私はいい加減な分党には諸般の事情で与せず、無所属を貫き、したがって民進党の党籍はそのまま。前原代表が地方に何の相談もなく突っ走った反省から、地方の意見を聞く会合を頻繁に開催した。その場で女性議員ネットワーク会議中国支部の会長として、的を射た発言していたのが戸倉県議だった。顔は忘れていたが、耳が無意識のうちに記憶していた。
<健気な戸倉候補の応援で何度目かの山口入り>
山口での街宣では、私は思い切り山口県民と彼等が選んだ政治家を褒め上げることにより、自民の北村候補をこき下ろした。
「山口県は戦後だけでも岸、佐藤、安倍と3人の総理を輩出しています。もう1人、高校2年まで宇部市で育った菅直人総理もいます。今は次の総理を狙う林芳正さんもいます。それに対して、我が長野県は羽田孜総理1人だけです。
こういうキラ星のごとき国会議員を選んでこられた山口県民の皆様が、そうした人たちと似ても似つかない方を参議院議員に選ばれるのでしょうか。」
私のこの嫌味たっぷりの斜めからの応援演説が多くの人に届くことはなかった。
<女性議員の応援に奔走>
18年前2007年には農業者戸別所得を引っ下げて全国各地を回ったが、今回は党本部から隣県・米どころ新潟県の打越さくら候補の応援要請があった。少々ドジをしてしまったが、「長野は農林分野で活動している議員が4人もいるのに、新潟は梅谷守衆議院議員だけだ。打越候補は2期目には農林議員になっていないとならない」と注文をつけた。私の応援の日には野田代表も南魚沼入りし、最後は僅差で当選することができた。
3人目の応援は義理返しで、候補者が32人も乱立した東京地方区で出馬した塩村文夏候補の応援である。著名でもない私が東京の街頭に立っても何の役にも立たないので、気が進まなかったが、18日(金)に北千住と新橋の駅頭のビラ配りの手伝いに出向いた。彼女は昨年秋の衆院選の折、唯一私の応援に来てくれた同僚議員だったからだ。
私はコロナの感染を回避するため、21年秋はおなじみのミニ集会もやめ、24年秋も自力で選挙戦を戦ってきた。ところが、選挙戦2日目に高市早苗(総裁選2位)、3日目に石破茂総理が相次いで相手候補の応援に長野入りした。立憲民主党の牙城・長野県を、そして7回連続当選している私を標的にしたものである。
<義理堅い塩村文夏候補に天の助け>
そこで私の有力支持者の1人が「また篠原さんには1人の応援も来ない。あっちは自民党の大物が来ているのに」と嫌味半分のため息をついた。少々カチンときたので女性の参議院議員にメールで応援要請をした。大半は「既に日程が決まっており、来られない」というつれない返事だったが、その中でそれほど付き合いが深いとは言えない彼女が駆け付けてくれた。なぜ来てくれたのか。
24年の代表選、私は吉田晴美衆議院議員(東京8区)が出馬できるように奔走していた。その折、彼女は吉田陣営で汗をかき、私の部屋に出入りしていた。多分その恩返しだったと思う。翌25年には自分の選挙を控え、東京の25に増えた小選挙区を隈なく回らなければならない立場だったにもかかわらず、その中の1日を割いて来てくれたのだ。
ところが、参政と国民民主に大量に流れたであろう浮動票を失い、6人目には入れず、3年の任期の7人目にやっと滑り込んだ。神様や仏様がそうした心がけをよく見ていて助けてくれたのだろう、私は天にも感謝した。
<思い出した2017年の美しい振舞い>
もう1つ思い出したことがある。前述の17年秋の総選挙で、民進党が希望の党と立憲民主党と3つに分裂した時、彼女は希望の党でもなく、(旧)立憲民主党でもなく、無所属で戦い落選していた。惜敗率(74.7%)からしてどちらかの党で出馬していたら比例復活当選はできていたはずである。私はいまだその経緯や心中を聞いたことがないが、選対委員長としてその心根に打たれ、党籍は民進党のままだったので、後からいくばくかの資金援助をした。生まれ故郷の広島3区での出馬だったが、もともと都議会議員であり、関係者が放っておくわけがなく、19年の参議院東京地方区の立憲民主党候補となり当選した。ところが、これまた後で知ったことだが、律儀にもその資金を他党に行ったのですまないと返却していたというのだ。一事が万事で勝手な振舞いが目立つ政界の中で「美しい筋が一本通った対応」をする人なのだ。
<比例区候補(森ゆうこ、白眞勲、川田龍平)の応援>
要請に応じて例年通り比例区候補の応援も精力的に行った。
4年前の21年に辻元清美衆議院議員が思いがけず落選。私が比例区への転出をすぐに勧めたこともあり、22年6月にはコロナの感染を心配して開催していなかった会合を彼女のために長野市で設営した。めでたく43万票でトップ当選し、今代表代行として活躍している。
今回は労組という支持母体のない森ゆうこ、白真勲、川田龍平の3候補から強い応援要請があった。
森候補は3年前に新潟地方区にて4期目を目指す選挙で辛酸をなめ、今回比例区に転出しての出馬だった。私と同じく農林水産分野で活動している。小沢一郎自由党代表が選挙応援で新潟入りした時に目に留め、町議からいきなり参議院選挙に出馬させ当選させていた。当初はそれほどよく知らなかったが、乱闘国会の折、委員長の机の上に登りマイクを奪っている勇姿が今も目に残っている。さすが政界を知り尽くした小沢代表が目をつけるだけのことのある人なのだ。
私の国政報告会へのゲスト、長野1区内の越県街宣、チラシの配布、選挙用ハガキ、そして最後は比例区候補では初の電話掛けまでした。その効果もあってか、苦戦を強いられていた比例区で最後の7人目でやっと当選できた。
立正佼成会を基盤とする白眞勲候補は同じグループ(素交会、鹿野道彦会長)で一緒だったこともありずっと応援し続けてきた。21年には辻元が比例区に転出して1位となったが、全体としては票が減り、いわば押し出された形となり、次点で苦杯を舐めた。今更だが、もしも私が辻元に参議院への転出など勧めずにいたら再選されていたはずなのだ。だから私はずっと胸の痛みを抱え続けている。それなのに今回も再び次点で涙を飲んだ。何ともお詫びのしようがない。
川田候補は食の安全分野で活動する同志であり、是非4選を果たして欲しかった。ミニ集会にも顔を出してもらい、ハガキも大量に出して応援したが及ばなかった。