2025.09.19

中国東北部の穀倉地帯は米中西部のコーンベルトと瓜二つ- 隈なく耕す中国、休耕地で草茫々の日本との差は何を物語るか - 25.9.19

<中国東北部 vs. 米国中西部>
 私は約半世紀前の1977年秋、米国留学中に訪れた中西部で地平線まで小麦で埋め尽くされた農地に度胆を抜かれた。そうした農家に泊まり込み、農作業を手伝わせてもらい、その大規模振りについて身を持って体験した。
 今回は、約27万人の満蒙開拓農民のうち1割強の約3万人を送り出した長野県、その中でも最も多い伊那谷の関係者の皆さんの慰霊の旅に参加させていただいた。中国東北部(旧満州)の農業について報告したい。

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<畑の隅から隅まで作付け>
 まず、中・米の差。中国のほうが俄然丁寧に作られていた。残念ながらバスの中から見るのが中心で、降りたのは元開拓団の跡地だけだった。また、収穫期前で農作業をしている農民を見ることも皆無だった。
 トウモロコシは人間の背丈を超えていた。茎も葉も大地の栄養をたっぷり吸いこみ青々としていた。作物は皆、畑の隅から隅まで植え付けられていた。アメリカの中西部では二階建てのビルのような大型トラクターで耕作する所は、畑の端では作物が作れず空き地になっていたが、中国ではその部分がごく僅かでしかなかった。その上に河川の土手や段差のある畑の傾斜地の端まで、びっしりと作付けされていた。

<日本で増え続ける荒廃農地 vs. どこでも作付けされる中国>
 日本では至る所にある荒れ果てた荒廃農地はほとんど見ることがなかった。更に驚くべきことに、小都市の大きな建物や敷地の塀の脇の数十センチの空き地にも2~3畝のトウモロコシが植え付けられていた。日本の何倍もの広さの国土があり、農地があるというのに、土地をフルに活用しているのだ。
日本も戦時中や終戦直後は、学校の校庭さえも芋畑に変わっていた。それを中国は平時だというのに勤勉な農民が農地を遊ばせておくのは潔しとしないのだ。

<大型農機の入らない所は家庭菜園>
 今は人が住んでいない土と木の古ぼけた農家の庭には、野菜が丁寧に作られていた。自家用もあろうが、余ったものは近隣の朝市などで売り捌いているに違いない。
 更に工夫が感じられたのは、広大なトウモロコシ畑と道路の境目の活用である。景観も考えて様々な街路樹が植えられている。するとその横では、枝が邪魔で大型機械では作業ができなくなる。そこには白菜等の野菜が整然と植えられている。道路のすぐ脇なので、植え付けや収穫といった農作業もしやすくなる。何と合理的なのだろう。その工夫にハタと膝を打った。
もう一つ感心したのは、農村地帯の道路を走っているのは日本風に言うとオート三輪で、電気自動車だった。バイクないしスクーターも電動で、CO2排出削減は徹底していた。
 街中を走るタクシーは全てEVというのは知っていたが、農村はそれよりも更に先をいっていたのである。

<日本の農民はもっと勤勉で、農村は公園のようにきれいだった>
 1900年代の半ばぐらいまでの日本の農村は、もっと美しく耕されていたのだ。そこまでしなくともと思われるぐらい、きっちりと草取りが行われ、田の畔では大豆や小豆が作られ、土手の草もそれこそきれいに刈り取られていた。草はどこの農家でも飼っていた牛、山羊、羊の飼料だったからだ。
 それを今では嘆かわしいことに、すぐに草茫々にとなる肥沃な大地があるのに、何と飼料用の干し草まで輸入に頼っている。輸送コストをかけ、CO2を排出し天に唾をしているのだ。
今、俄かインバウンドブームで僅かばかりの外国人観光客が農村にも足を踏み入れているだろうが、一昔前はそんな酔狂な人はいなかった。ただ私は、確か駐日豪大使夫人が、日本の農村風景のあまりの美しさに驚嘆し、週刊誌にその寄稿文を写真入りで掲載していたことをうろ覚えではあるが憶えている。川勝平太前静岡県知事はそれを「日本ガーデン列島」と称している。

<新自由主義の暴挙が、美しい日本を醜く変えていった>
 それでは一体、その勤勉で農地を大切に使う日本人(農民)が、何故耕さなくなってしまったのか。農民には何の罪もない。コメをはじめとする農産物がWTOの自由貿易を金科玉条とするルールの下、次々と自由化され、二束三文の作物だけではとても食べていけなくなってしまったからである。
一方で体制の異なる中国では、WTOへの加盟は2001年、世界の潮流だった新自由主義にもグローバリズムにも毒されずにいられたのだ。だから農民も農地も守られ、農業も生き残ることができたのである。
そして圧巻は頭を垂れ始めた水田である。かつての日本でも北海道では稲作が不可能だったのと同じく、東北部の4大作物と言えば、大豆、高粱、トウモロコシ、小麦でコメは中心ではなかった。コメは南部のほうでささやかに作られていただけだった。ところが今や大稲作地帯となっている。

<寒冷地を一大米作地帯に変えた2人の日本人技術者>
 黒竜江省を中心に1980年代から水稲の作付けが急増した。三つの河川(黒竜江、松花江、ウスリー江)が造り出した三江平原を中心に水利のよいところは水田に変わっていった。そこに貢献したのが、日本の寒冷地で稲作指導をした経験のある二人の技術者、藤原長作(岩手)と原正市(北海道)だった。二人の熱の入った指導により、一挙に年収が増加した。折しも日本ではコメ余りから減反が始まっており、コメの出来過ぎが白い眼で見られる時代となっていた。多分二人は、そうした愚かな母国に対しては「何するものぞ」という気持ちであり、心血を注いで指導にあたったに違いない。原は1982年以来21年間に63回25省151県に合計1522日飛び回ったという。

<満州を侵略した罪の一部は許してもらえる原正市の大功績>
 その結果収量が2倍に伸び、中国農民からは「洋財神(外国から来て懐を豊かにしてくれる神)」と呼ばれ、数々の表彰を受けている。1998年江沢民国家主席が訪日、北海道に出向いた折、会って礼を言われている。
 日本の寒冷地稲作技術がまさに日中の絆・架け橋になったのである。

投稿者: 管理者

日時: 2025年9月19日 18:15