【菜の花シリーズ④】なぜ中野と飯山で菜の花畠(ナタネ畠)復活か ―大規模生産で搾油所を設置、所得補償で休耕地にも生産拡大―26.07.20
<降って湧いた70ha、50haの遊水地>
2019年の19号台風により、60年ぶりの大水害が発生したことから、北信州に長野市塩崎(20ha)、中野市上今井(70ha)、飯山市蓮(50ha)と3つの遊水地で千曲川の水流を減らすことになっている。川の水をいったん引き込んで洪水を防ごうというものだ。
当初は何にも活用せずに数十年に一回に備えるというムダな考えだったが、私が相当動いて、農業用にも使われることになった。長野市の犀川の河川敷はサッカー場、野球場、ゲートボール場、ランニングコース等様々に活用されている。国交省(千曲川河川事務所)はそれを農業用に活用することを恐れていたが、河川敷ではなく、川の外の遊水地だけにとどめることで決着がついた。担当者もその通達を出す前に私に説明してきた。
<巨大な菜の花畑が一挙に出現>
実は私はその時から遊水地にナタネを作れると密かに考えていたが、急に突飛なことを言っても受け入れられないのでずっと黙っていた。いきなり採算の合わないナタネを作れと言っても農民は動かない。いくら休耕地、あるいは遊休農地があるではないかといっても、手間をかけても収入が得られなかったら、とても作る気になれないだろう。それよりシャインマスカット等のぶどう三姉妹やりんご三兄弟の方が収入が格段に多くずっとましだからだ。
それに対して平地で規模が大きければ十分採算が合うはずである。しかし、現状ではそんな適地は見当たらない。そこに登場するのが70ha、50haの大規模な耕作地なのだ。
<市町村が主導できる大規模生産が始まる>
遊水地は国交省が洪水防止のために買い上げた国有地である。それを農業用に使うには市町村が責任をもって管理しないとならない。個々の農家に耕作権を与えるといった業務を、仮に千曲川河川事務所がするとしたら、業務量が過重であり、ややこしくて処理できないだろう。地方自治体はまず第一義的に責任を負い、次に農協なり生産者(組合)に配当する以外にない。
戦後の農地解放時代と違い、農民の数は減りに減っている。そして規模拡大が必要と言われても水田が30haがあちこちにちらばっていたらそれほどコスト削減にはならない。それを遊水地は国が所有し、どのようにでも振り分けられる。10a(1反歩)ずつ10戸に作ってもらっても1ha(1町歩)に過ぎない。それを最初から50haなのだ。だから、大規模農地から始まるのだ。そこを一挙にナタネにすれば、コストは下がり量も確保できるので、搾油しても採算が合うことになる。
<ナタネの後に米でもグレーンソルガムでも作れる>
中野市では遊水地の活用にJA信州中野はキノコの培地用のグレーンソルガムを作らせて欲しいと要望している。他に水田にも使える。いずれもナタネを5月中旬に収穫してから2つ目の作物として作れるのだ。これが世界中でナタネが喜ばれる理由でもある。
搾油所もできれば休耕地に作る農家も出てくるだろう。小面積では採算が合わないのだから、所得補償をすればよい。かくして、ナタネが徐々に復活していくのである。
<高野辰之の生地で菜の花議連総会開催の理由>
中野市と飯山市では一気に広い農地で作れるのだ。このことを中野と飯山の関係者にPRする機会が菜の花議連の現地総会の目的だった。これを奇貨としてナタネを導入するのである。
私はこれを中野市と飯山市の関係者にわかってもらいたかったので、現地総会開催をフルに活用することを考えていた。ところが、前述したとおり、大会場で開催できず腰砕けになってしまった。途中、私のしらないうちに警備上の理由から15人程度しか入れない密室に閉じ込められそうになっていた。私が乗り出しやっと30人程度にまでなったが、私の思惑は外れてしまった。
<団塊の世代以上でないと黄色、桃色の春の風景を知らない>
最近、戦争の臭いが漂い、不穏な空気が流れている。だから菜の花議連総会のついでに開催した石破・猪瀬W講演、対談には600人も集まった。戦争を知らない世代が大半を占める時が日本の危機だと言われていたが、今まさにそういう状況になりつつある。
同じことが菜の花にも言える。私は1948年生まれの団塊の世代、菜の花畠が忽然と消えるきっかけになった大豆の輸入が自由化される1961年には13歳になっており、それまでの間に山麓が真っ黄色になり、田んぼも黄色の菜の花とピンクのレンゲで埋まった。それはそれは色彩豊かな農村風景が目に焼き付いている。黄色も桃色も目立つ色である。レンゲはちょうど水田酪農と称して乳牛の導入が盛んに行われていたため、かなりの水田がレンゲで埋まっていた。一義的には牛の餌であり、地中深く掘られたサイロに保管されたが、マメ科であり、緑肥としてそのまま鋤きこまれてもいた。
残念ながら75歳以上の後期高齢者、つまり団塊の世代以上でないと美しい光景が記憶に残っていない。だから、団塊の世代の美的感覚が残っている間に菜の花を復活しないとならない。もうそれほど時間は残されていないのだ。
精米所は集落ごとにあり、大体が油屋と称される搾油所は小学校の学区区域に1つはあった。需要と供給の関係とフードマイレージ(運ぶ距離)の関係でそのようになっていた。各地に少なくとも「油屋」と称される屋号は今も残っているはずである。
<気骨・気概のあった青森県横浜町長>
本当は政府がナタネ油の復活に手を貸さなければならないが、その気がなさそうなので地方がリードするしかない。特にちょっと気の利いたやる気のある農村ならできるのだ。見本は青森県の横浜町である。日本から菜の花が忽然と消えかかったころ、頑として栽培を続けた。主幹作物である馬鈴薯の連作障害を避けるための裏作として毎年畑を変える輪作体制をとっている。全国の作付面積の上位5市町村の中に北海道以外で唯一入っている。100ha弱で200tの上の生産があり無農薬栽培のなたね油が道の駅に並んでいる。もちろんどこにでもある菜の花祭りも観光スポットとして人気を博している。1960~70年代の横浜町長が頑として菜の花を作り続けると言ってきかなかったため、今も残っているのだ。
<忽然と消えた菜の花を地道に復活する>
もう1つ、なたね油の地産地消にも触れなければならない。私の幼少の頃、農家は皆菜の花を作り、油屋で搾油して、数本の一升瓶に入れて保管し、使っていた。それを今はゼロ。今回長野1区内で搾油所を探したが、見当たらず、わざわざ小諸からさくさく農園に来てもらい事例発表してもらった。
私は数年前から北信地域、長野1区の農村から牛、豚、山羊、めん羊、鶏等の家畜がこれほど忽然と消えたことに警鐘を鳴らしてきた。先進国、発展途上国に関わらずこんないびつな狂った農村は世界中どこにもあるまい。菜の花は1960年を境に忽然と消えた。しかし、昔作っていたものが作れないわけがないのだ。
<中野市・飯山市でもできるナタネ油の自給>
試しに中野市で試算してみた。今井遊水地70ha、遊休農地160haある。遊水地だけでも生産量は140t、油にして56tにもなる。1世帯あたりの油の消費量は8.9kg、中野市の156,376世帯で146tが消費されている。遊水地のナタネだけでほぼ地産地消が達成される。ここに遊休農地の加えたら、それこそ道の駅の土産物にも使われることになる。
飯山市の菜の花祭りには「朧月夜」音楽祭がある。「童謡とふるさとの唱歌の全国音楽祭」と銘打って近隣の市町村から様々なグループが参加しているが、課題曲は朧月夜であり、参加グループが歌や楽器で競っている。ここに食べ物のナタネ油も参加させないとならない。
特に飯山市は高野辰之の生家は中野市だが、母親は飯山市だ、高野の小学校教員としての勤務地が蓮だと言うなら、50haの菜の花畠を復活させて報いてもらいたいと願っている。