2026.08.02

政治

第1議員会館719号室の後継者、木下敏之新衆議院議員との奇縁―律儀な男が思いがけず66歳の新人衆議院議員にー26.08.02

 2025年秋、農林水産省時代相当濃密に付き合った10年後輩の木下から、参政党から福岡2区で衆議院議員に立候補する、という連絡をもらった時は正直言ってびっくり仰天した。
 木下は、私が農林水産技術会議事務局の研究総務官というナンバー2だった時に総務課の筆頭補佐をしていた。ところが1999年の正月、地元の佐賀新聞に木下が佐賀市長選に出馬すると書かれていた。本人は、一度ちらっとそういう要請に来た人がいるけれども、そんな話を受けるなどと言ったことは全くなかったという。彼は悩んでいたが、私は「霞が関には代わりがいくらでもいる、しかし地元出身で適任の人はなかなかいないのだろう、あんたの判断だ」とアドバイスした。しかし、周りはすべて止めにかかっていたようだ。

<次官室からの呼出し>
 最も強く止めにかかったのは事務次官であり、私を次官室に呼びつけた。木下の出馬をやめさせろという命令であった。私は「言ってみますが、本人が辞めると決意しているのをやめさせることは難しい」と答えたが、次官はそれでもやめさせろと引き下がらず、押し問答が続いた。帰りに同期が秘書課長をしていたので立ち寄った。自民党の幹部からいろいろプレッシャーをかけられていて、他に農政の大問題で農林議員の上層部からもお叱りを受けていて大変な時だったという。

<秘書課長のフライング貼り出し>
 そこで私は秘書課長に「木下がもう辞めてしまい手の届かない所に行ってしまった、と言う以外にないじゃないか」と当たり前の知恵を授けた。秘書課長も焦っていたのかもしれない。そこでちょっとフライングをして、さっさと木下敏之の辞職を承認するという張り紙を出してしまった。
 国家公務員は60歳が定年であり、その当時は事務次官ですら55歳ぐらいで辞めており、定年前に辞めるのは辞職を承認する、という辞め方だった。数日のずれなど大したことはなく誰も気にも留めてなかった。ところが、この件はその後思わぬ波紋を投げることになった。

<酷い中傷ビラ>
 穏やかな長野一区では経験したこともないが、九州なり佐賀なりは激しい選挙戦のようで、この一点をもって中傷ビラが作られていた。木下が少々男前なのが災いしたのか、「省内の若い女性と親しくなり妊娠させてしまったが、それを堕ろさせた、役所の金をネコババした、札付きの悪役人だったので、辞めさせたかった」という見事な創作である。ところが、ほとんど無名だったにもかかわらず、大方の予想を跳ね返し、自民党の推す候補を2万票も離して圧勝した。全国最年少39歳の県庁所在地の市長となった。

<参議院法務委員会での思わぬ糾弾>
 しばらくしてその件がなんと参議院法務委員会で野党議員から攻撃を受けた。陣内法務大臣が佐賀県選出の参議院議員だったからだ。省内の些細なちょっとしたずれが外にバレていたのである。今度は官房長から電話がかかった。
 官房長は次官同姓だったので、私は物わかりのよい官房長を「good○○」、何かと高飛車な次官を「bad○○」と呼んで混乱しないようにしていた。的確な形容詞だったからかもしれないが、多くの人が使っていた。

<木下の受けた屈辱は拭い去れず>
 goodから「お前の木下の教育が悪いからベラベラ喋って、今秘書課長が法務委員会で汗をかいている。テレビ中継を見ろ、これから木下に取材が殺到するけれども、一切べらべら喋らないように言っておけ」というお達しである。早速木下市長に電話すると、登庁2日目で市政の説明を受けているところだった。
 しかし、彼は「あの張り紙のおかげで、どれだけ屈辱を味わったかしれない」と聞き入れなかった。母親が「こんなひどい息子に育てた覚えはない」と、選挙事務所に出馬を取りやめろと乗り込んできて、大混乱に陥ったというのである。しかし私は「勝てば官軍なんだからいいではないか、それも水に流して黙っていろ」と追い打ちをかけたが、「その元を作った秘書課長を庇う気には全くなれません」と頑として聞き入れなかった。

<待ち受けていた意外な落し穴>
 二期目も当選し順風満帆のようだったが落し穴が待ち受けていた。合併に伴う佐賀市長選で破れ、6年で辞めることになってしまった。真面目に仕事をバリバリする優秀な男であった。だからやり過ぎたのだろう。市の職員、労組に嫌われて追い出されることになったようだ。共産党と自民党が同じ街宣車に乗って木下の対抗馬を応援したという。今ならマスコミはパワハラ市長と書くところだろう。
 私はこの場で木下を擁護しておきたい。なぜならば私が農林水産副大臣の時に秘書官の皆川治が地元の鶴岡市長を務めていたが、彼も同じ理由で3期目に落選していた。2人とも絶対にパワハラをするようなタイプではない。ただ、共通しているのは真面目に仕事をびしびしやるということだけである。職員がその要求に応えられないことをもって市長が悪いと追い出しているのである。私はブラック企業ならぬ役所で数多のパワハラ上司に仕えてきており、部下であろうともその気配があるかどうか峻別する自信がある。入省して私の下にきて、もう一度同じ課になったある有能な後輩には、「将来お前の部下になるやつはかわいそうだな」と教育したが、後に誰からも嫌われるパワハラ上司になっている。

<市政に対する思い入れに脱帽>
 木下が真面目さは市政に対する思い入れに表れている。彼はその後、私の佐賀の同僚議員の原口一博と知り合いだったことから、中央政界にも声がかかったけれども、市政をやりたいということで縁のない福岡市長選に出馬している。若い時に島根県の三隅町と栃木県の農政部の課長で出向しており、地方行政に精通しつつあった。
 詳しい経緯は知らないけれども、こうした経歴が神谷宗幣代表なり参政党の目に留まり、66才の新人衆議院議員になれたのだと思う。

<木下の陰で篠原への逆風>
 木下が佐賀市長になって間もない頃、私は行政から外れ農業総合研究所の平の研究員に異動となった。旧知の中川昭一大臣は行政と研究の橋渡し役、目玉人事とか取り繕ってくれたが、明らかな左遷である。今では全員が定年まで長く勤められるようになり、年下の上司に仕えることも珍しくなくなっている。しかし、その頃は給料が下がる左遷というのはほぼなかったのではないかと思う。

<先輩政治家木下の恩返しの選挙応援>
 その数年後、私は思いがけず衆議院議員になっていた。そして私にとって二度目の2005年の選挙に佐賀市長でありながら、木下が応援に来てくれていた。政治家の先輩として、選挙の先輩として来てくれたのである。2009年にも来てくれ、へたくそな私に代わり街宣車のカラスもやってくれた。数万枚のビラに証紙を貼る大変な作業があるが、木下はせっかく来たのだからと言って、夜中まで証紙を貼っていたという。終わってから言われたのだけれども、佐賀市長が九州からわざわざ来て作業しているのに私たちは帰るわけにいかないと、周りの人たちは夜中まで一緒に付き合わされていたそうである。地元の皆さんには迷惑をかけていた。

<選挙の年に10万円の表金献金>
 木下の律儀な恩返しはそれだけではなかった。2024年総選挙、裏金が問題になっていたので、献金者名簿を作ったところ、その中に個人で木下敏之福岡大学教授10万円とあった。木下は選挙の年に必ず10万円を寄付してくれていたのだ。篠原事務所の連携が悪いのか、私が呆けているのか、私はずっと知らなかった。
 彼が私の左遷が佐賀市長選出馬のごたごたが原因だと思い込んで、気にかけていたのは分かっていたが、大学教授はそれほど高給ではないはずなのに、0年も経ってもまだこういうことをしている律儀さに思わず涙がこぼれた。

<「酷暑日』に冷たいコップの1杯の水の清涼感>
 私は、周りの人に感謝して生き、受けた恩は3倍にして返し、やってやったことは忘れる、という警句を胸に刻んで生きてきている。とはいえ、人間ができていないのでどうも後者は難しい。政界は一般社会や官界と比べ、野心家だけの集まりであり、あまりの露骨さに嫌な思いをすることは多々あったが、段々気にならなくなった。今回初めて落選の憂き目にあったところ、手のひらを返した態度をとる輩がいることに驚き、悲しい思いをしている。
 そうした中、木下の長年にわたる善意は、酷暑日の一杯の冷たい水のような清涼感あふれるものである。政界23年の後半にこのようなホロリとするようなことにであえたのは、望外の幸せと言わなければならない。

<木下のお陰で衆議院議員になれたのかも>
 佐賀の中傷ビラと同じで私が木下に出馬を促し、止める次官の言うことを聞かなかったので左遷されたとまことしやかに語られていたことを後から知った。確かにそれは一つのきっかけにはなっていただろうと思うが、そもそも私がbadとあだ名を付けたり、農林水産省の本流とは違う農政論を新聞雑誌に書いたり、上層部から嫌われる要素は山ほどあった。
 皮肉な見方をすれば、私が研究所になどいたので、それなら国会議員になってほしいと声がかかったのかもしれない。だとすれば、むしろ私が木下に恩を感じなければいけないのだ。それを木下は私の気付かないところで恩を何倍にもして返していてくれたのである。そして、陰徳あれば陽報あり、衆議院議員出馬の声がかかったのだろう。だから今度は私が返す番であり、なにがしかの援軍をしなければならなかった。

<神谷参政党代表との会食セット>
 幸い私は神谷代表とも面識があった。参議院の食堂で話をし、参政党の公約である食料自給率100%などというのは、弱小政党だから言えるが、ちゃんとした野党第一党にはできない、外国人労働者を入れてまで経済大国を維持するのは邪道で私も反対だが来てくれている外国人を邪険に扱うのは間違い、などときつい批判しつつ、食べ物の安全性重視などは褒めたりしていた。木下はまだそれほど親しくないというので、秋に神谷代表と一席を設けてやった。これがどれだけ役立ったかしれないが、彼はめでたく衆議院議員になれた。私のささやか恩返しである。
その時、私は25年前と同じく木下と一緒に仕事をできたらと心を躍らせていた。ただ、一方で、密かに決めていた今期限りの引退が頭をかすめた。それだと入れ替わりになってしまう。
 運命の神は時として気まぐれで残酷である。思いがけない解散総選挙で一旦は私に微笑みかけたがそうは問屋が卸さず、私は国会を去ることになった。

<政策的にも木下は篠原を継いでくれる>
 木下は、農業農村政策の強化、地方の活性化は全く共通の政治理念である。私は女性議員を増やそうとしてきたが、木下は女性の貧血・生理について研究してきたそうで、早速、高市首相に鉄分が不足しているのではないかと質問をしていた。また、軍人だった父や叔父の影響で、質のいい右翼でもある。その辺の対米従属一辺倒とは逆で、日本の自立を考えている。私の石橋湛山への傾倒と全く同じである。それから、私は、満蒙開拓で600人もの集団自決を強いるようなことは、もう2度としてならないと思っている。ただ国のために命を落とした兵士への敬意は別であり、靖国神社への参拝は他国にとやかく言われる筋合いはないと思っている。その点も全く同じである。
 私と彼の大きな違いは、私はITなり情報化社会には全く疎いが、彼は研究もし、いち早く佐賀市長の頃から仕事のIT化に取り組んでおり、まさに今後の日本社会に打ってつけの経歴である。

<第一議員会館の719号室の新しい住人>
 木下敏之衆議院議員は私が長らくいた衆議院第一議員会館719号室の二人目の住人になっている。文房具類はじめいろいろな器材は一切合切残してきた。おまけに私の秘書も木下が引き継ぐことになった。
 市政に情熱を傾けようとしていたのとはちょっと違ったけれども、その溜まっていたマグマを一挙に吐き出し、縦横無尽に動き回り、国政に一矢を報いてほしいと思っている。
残念ながら地元長野1区では長野の匂いのする長野生まれ育ちの女性候補という後継者は作れずじまいだったが、719号室の立派な後継者が、まわりまわって現れたのは嬉しい限りである。

投稿者: しのはら孝

日時: 2026年8月 2日 10:19