2009.10.18

政治

我が農政の友、中川昭一元財務・金融大臣の若い死を悼む-09.10.18-

<超多忙の9月中旬から10月上旬>
9月中旬から、10月上旬にかけて私は大忙しであった。前々からの長野市長選の候補者選びが一つ、次に、読売新聞が長野2区の下条みつ衆議院議員のことをいろいろ書いて、その延長線上で私のところにも取材が来だした公設秘書給与寄付問題。私は、マスコミ10数社に膨大な時間をさいて対応した。それから、9月29日に財務金融委員会の筆頭理事を命じられ、その関係の会合が2日ほどあったほか、関係省庁からの説明等に時間をとられている。

<はじめてのスキャンダル(?)報道>
これら雑多な問題をブログでいろいろ報告するために書き留めたいと思っていたところ、9月30日読売新聞に私の公設秘書給与寄付問題が書かれた。同じように取材を受け対応したが、朝日新聞は、後に全く違ったトーン、つまりお金のない議員が企業献金を禁止され、個人献金は集まらず、公設秘書の寄付も民主党内で禁止されたら、いったいどうやっていったらいいのかというトーンで書いた。読売新聞とそれにつぐ信濃毎新聞の記事は、私にはとても腑に落ちなかったが、あれこれ蒸し返してもしかたないのでブログ掲載はやめることにした。

<突然の訃報>
 長野市長選挙には、私と長野高校で同学年の小林計正さんに急遽出ていただくことになった。県庁OBで行政経験は豊か、温厚篤実な人柄で市長候補として申し分ないが、短期決戦となったため、私も総力をあげて取り組み始めた。
そうこうするうち10月4日、私の盟友の中川昭一元財務・金融大臣の訃報が届いた。初めての落選でどうしているのか心配していたところであり、私は一瞬涙した。5日に自宅に弔問に行き、今日(10月9日)14時のお葬式にも出席して、議員会館で机に向かってこの文章をしたためている。何よりも中川昭一さんの追悼をしないとならない。

<激励に行けなかった悔やみ>
私は中川さんの性格をよく知る一人であり、当選のお礼の挨拶回りを終えて上京し、真っ先に中川さんを激励に行くことにしていた。しかし、前述のとおり、長野市長選のバタバタ、ふって沸いた公設秘書給与寄付問題の対応のために中川さんと顔を合わせることができなかった。それが今でも非常に悔やまれてならない。

<懐かしい玉沢勉強会>
1983年に、今順調に当然を重ねていたとしたら当選9回になる自民党の方々が一期生として当選してきた。当時の自民党農林部会長の玉沢徳一郎さんは「今年の一期生議員は活きのいいのがいっぱいいるから、おれが勉強会をセットして鍛えてやらなくてはならない」と言って私(大臣官房企画室企画官)に命が下り、その活きのいい一期生と毎週1回勉強会を開くこととなった。私は克明に覚えている。事務方として末席にいる私の前に、一番若輩であるがゆえにチョコンと末席に座った若き日の中川昭一議員がそこにいた。
このように、中川さんの26年の国会議員生活は、農政のかかわりから始まった。中川さんの他に大島理森幹事長、金子原二郎長崎県知事といったメンバーである。玉沢さんの目に狂いはなかった。

<四半世紀に及ぶ官僚と政治家の付き合い>
本当に素直な勉強家であり、我々の前で威張り散らしたことがなく、まさに農政の同士であった。これが今民主党が指摘する、自民党族議員と霞ヶ関官僚の癒着の典型例かもしれないが、政府与党一体となった政策推進のひとつの姿かもしれず、一方的に悪いとは決められない面もある。少なくとも、私と中川さんの付き合いは、ほのぼのとした暖かいものだった。
いつぞや、「有機農業とは勇気の出る農業ですか?」と聞いてきたことがあった。「選挙区でそんな無知を言いふらしてやる」と冗談を言ったら真顔で心配していた。2ヶ月後、北海道の田舎の公会堂で開かれた有機農業研究会の講演で話していたら、懇談会前に現れたのが、中川さんだった。ただ、運悪く(?)、2歳半の娘を連れての講演会であり、この後、逆に、私の子連れ講演が毎度のごとく言いふらされてしまった。
(民主党男女共同参画推進本部ホームページ「男性議員子育てパパ日記」2005秋参照)

<農政をともに推進>
二人でタッグを組んで実現した政策もある。加工原材料の牛乳には補助金が出ているが、自ら加工する場合はホクレンに出荷しないため補助金がつかない。それを申告することによって補助金が出るようにしたのも、北海道の元気のいい酪農青年部幹部が私のところに押しかけ、私が中川さんに伝え知恵を出したのが始まりである。その結果、北海道の牛乳を原材料としたチーズ、バター、キャラメル作りが広まっていった。
(2006年8月27日ブログ「大黒宏:ノースブレインファーム再訪」参照)

<待望の農林水産大臣>
当然予想されたとおり、中川さんは父君中川一郎さんと同じく農林水産大臣として農林水産省入りし、若き自民党のホープに成長した。私はその頃から中川さんがいずれ自民党の総裁、そして総理になることを密かに熱望した。しかし、身近に接していると一つ障害になることがあった。例の酒の飲みすぎである。私はビールを2・3杯飲み、酒を一本ぐらい飲めばもう飲みたくなくなるが、中川さんは酒が好きであり強くもあった。当然私は飲みすぎを注意したがなかなか聞かなかった。

<痛みのわかる優しい人>
 人生には皮肉な巡り合わせがいくつもある。中川大臣の最初の幹部人事が、私の異例の人事だった。1999年8月1日、理由は定かでないが、私は農林水産技術会議事務局研究総務官から農業総合研究所に異動した。役所の人にしかよくわからないと思うが、指定職4号からヒラの研究職への降格人事であり、年収で400万円の格下げである(たぶん、大臣はこの点は知らなかったであろう)。
 中川大臣は記者会見で、私の執筆活動等をあげ、研究と行政を結ぶ目玉の人事だと一生懸命持ち上げた。そして、こうした人事には一言も触れずに私を慰める会を開いてくれた。
 私が、年賀状の添書きに「役人ももう飽きた」と書いた時は、すぐ電話をしてきた。私の心境の変化を知ってのことだった。ただ、「篠原さんの字が読めないんで気になって眠れないから電話しただけだ」と憎まれ口をたたくのは忘れなかった。照れているのである。気持ちの優しい男なのだ。

<飲み過ぎを何回も注意>
いつぞやは私の関係する会合に、他の会合も梯子した後、わざわざ出てくれたことがある。私が国会議員になったあと後援会の副会長になっていただく某出版社の社長もいた。足元がフラフラしているので、中川さんはその社長から挨拶の中でお叱りを受けた。それでも「長野県の人は篠原さんをはじめとして小言を言う人が多いですね」と減らず口をきいていた。この頃はまだ余裕があった。
ある時、後輩から「大臣が『篠原さんと飲むと小言ばかり言われるので、お前らと飲むことにした』と言って我々と一杯やりましたよ」という告げ口が届いた。かわいそうに私の小言を気にして、若手と飲んでうさを晴らしていたらしい。

<中川さんと馴れ合いの質疑応答>
何の因果か、私は後々民主党の国会議員になった。何度か質問せざるを得なくなったが、なるべくどぎつい質問は避けたし、中川大臣も答弁しにくかったようだ。
中川さんは小泉政権のときに経済産業大臣となり、農林水産大臣に再び任命された。小泉首相の所信表明演説の時、本会議の壇上で酔っ払っていたのであろう、首をあっちにやりこっちにやりしていて、野次で騒然となった。私もこれはまずいと思い、経済産業大臣室に注意しに行った。その時もあの人懐っこい、恥ずかしそうな顔をしながら「小泉総理にも言われたし、酒は飲んでないから」といってすまなそうに答えた。

<ローマの酩酊記者会見後も総理を期待>
 中川さんの性格のよさがそうさせるのであろう。同じタカ派的体質を持つ安部政権で政調会長、麻生政権で財務・金融大臣、まさに、トントン拍子の政治人生だった。自民党がすっかりタカ派的体質になったのも中川さんに幸いしたのだろう。酒の飲み過ぎなど苦にもされず、要職を歴任し続けた。
私は酒の飲みすぎを抑えて総理・総裁を目指して欲しいと心から願っていた。そして、この事を明言し、苦言し、励ましつづけた。その夢が半分つぶれたのが、例のローマでの酩酊記者会見である。
しかし、私はそれでも中川さんに立ち直ってほしいと思っていた。私の同僚議員の石川知裕さんが05年の総選挙で比例復活し、中川さんのライバルとして急激に力をつけつつあった。当然私のファンの農家もいっぱいいる選挙区であり、応援に来て欲しいと要請を受けたが、中川さんに義理立てして行かないようにしていた。

<私は55歳で国会議員、中川さんは55歳で残るは総理のみ>
2009年の選挙戦、ブログの端々にも書いたが、私は予想される事態を考え選挙の演説の時にも中川さんに触れて私の政治姿勢を話していた。
「中川さんは若くして国会議員となり、農林水産大臣2回、経済産業大臣、政調会長、そして財務大臣と、55歳ですべてをやりつくしています。私は55歳の時に国会議員になりました。だから私はできる限りのことをしているだけで、政治資金も集めず、できることをできるまでやればいいということで政治活動をやっています」。これは多分落選してしまうであろう中川さんを励ます時に使うフレーズを前もって使っていたにすぎない。
「中川さんは55歳であとやってないのは総理だけ。私は55歳で初めて国会議員になった。0から始めると考えれば何も悲観することはない。10年後でも麻生さんより若い65歳。72歳の福田さんよりずっと若い。自民党が政権奪取する時に、いくらでも総理・総裁を狙える。」こう励ましに、なるべく早く中川さんのところへ行くつもりだった。

<お互いにファン同士>
もし私が中川さんと会って、「昭ちゃん、しっかりしろよ」と励まし、久しぶりに軽く一杯やっていたら、元気になるきっかけを作れたかもしれないのだ。私には面と向かって言ったことはないが、中川さんは「篠原さんのファンだ」と言っていたそうだ。それよりも私こそ何倍も熱烈な中川昭一ファンだったのだ。中川さんは時には酔っ払って電話してくることがあった。どうやら私との語らいを癒しの一つにしていたらしい。今回はこちらから癒しに行ってやろうとしていたのに。
政治の世界に、If、もし何々ならというのは許されない。我々は心優しい政治家、中川昭一を失ってしまった。自民党の退潮を象徴しているのかもしれない。
中川さんの冥福を祈るばかりである。

投稿者: しのはら孝

日時: 2009年10月18日 17:10