2024.06.18

環境

<水俣病シリーズ5、政僚シリーズ14>パルム・ドール監督是枝裕和と水俣病をつなぐ線-30数年前水俣病の解決に板挟みになり自死した山内豊徳の意思を継ぐ- 24.06.18

<水俣・阿賀野の現地で生の声を聞く>
 私は今、水俣病患者の救済のために環境委員会で質問し、水俣にも出かけ阿賀野にも出かけ被害者の生の声を聞いて一生懸命決着を図ろうと力を入れている。一時、私が「水俣病患者とともに歩む会」の会長をしていた。表向き国会議員生活の半分以上を環境委員会に所属しているという理由もある。地元でもどこでも私は農林水産委員会を中心に活動していると皆さんが勝手に誤解しており、私の環境分野での政治活動を知っている有権者は地元にはほとんどいないと思う。
その後、この体制は阿賀野川を選挙区に抱える西村ちなみを会長にし、水俣のすぐ南の鹿児島を選挙区とする野間健を事務局長にして対応してきた。

<30年前「霞が関ペンの会」で知り合った山内豊徳環境庁企画調整局長>
 遥か昔、私がまだ若手の霞ヶ関の役人だった頃、「霞ヶ関ペンの会」という会からお誘いの電話があった。個人的にもモノを書いている人たちで集まって一緒に活動していこうというのだ。声の主は環境庁の山内豊徳(やまのうちとよのり)企画調整局長だった。山内局長は、1980年から福祉新聞に仮名で「福祉の国のアリス」を掲載し、2年続けた後本にまとめていた。実は私も農水省の広報誌AFFに、1年間アメリカ留学の雑文を掲載、それが「アメリカは田舎の留学記―霞ケ関いなかっぺ官僚」として出版されていた。

<山口局長の要請にただ一人応える>
 それから数回付き合ったと思う。その会には後に国会議員になる竹本直一、大泉博子もいた。それほど頻繁に活動していたわけではないが、どうしてもと頼まれて1件は多少恩を売ったことがある。山内局長に住友商事が会社設立何十周年にあたり、記念論文を募集しているので霞が関ペンの会からも応募して欲しい、と住友商事の友人から要請があったというのだ。しかし、残念ながら皆さんお忙しいようで私だけが、期限までにお届けし非常に喜ばれた。

<まじめすぎる福祉官僚>
 そうこうしているうちに、1990年12月突然山内局長の自死が報じられた。私は愕然とした。水俣病をめぐる裁判が今と同じように行われていて、国が敗訴し、山口局長は和解交渉の国側の責任者だった。熊本県とチッソは和解勧告を受け入れる態度を示して来たのに対し、国は最後まで頑として和解勧告聞かず、拒否していた。このため、患者やマスコミの批判の矢面に立たされていた。国の方針に従わざるをえないという職責と本人の良心、そして福祉官僚としての志の板挟みになっての自死であった。そんな馬鹿なと思わず涙したのを覚えている。

<絵にかいたエリート官僚>
 山内局長は1932年福岡生まれ。文才が立ったようで名前は忘れたけれどもジャーナリストから山内局長の小学生の時の早熟ぶりを聞かされた。毎日小学生新聞の作文の募集があってその時に応募した。自分は2位で、1位が山内豊徳少年だったという。それが今企画調整局長になっているということであった。東大の法学部を卒業し公務員試験(法律職)が2番で、福祉政策を取り組みたいと厚生省に入省をしている。
志のある優等生官僚は、厚生省から新しくできた環境庁に出向し、官房長、自然保護局長そして事務次官の待機ポストである企画調整局長になっていた。そこで彼の初心にふさわしい仕事、すなわち環境省ができたきっかけとなった水俣病の解決に心血を注いでいたのである。

<是枝裕和監督に大影響を与えた山内局長の板挟みの自死>
 今回改めて山内局長の人となりの確認の為SNSを開いてみたら、「万引き家族」で第71回カンヌ映画祭(2018年)の最高の賞(パルム・ドール)を獲得した是枝裕和監督が一番最初に手がけたのが、生活保護を打ち切られた難病の女性の自死のドキュメンタリーだった。その時に山内局長の自死を知り、一緒のドキュメンタリーの作品(「しかし・・・福祉切り捨ての時代に」)の中に取り込んでいる。是枝は、一般庶民の1人として助けが必要なか弱い女性に対して冷たい官僚はけしからん、と思っていたが官僚の中にもこんな真面目な人がいるということで感じ入り、ドキュメンタリー作品に取り込んだだけでなく、本(「官僚はなぜ死を選んだのか: 現実と理想の間で」)にしている。今や世界的に有名になった彼の映画制作の原点は、1番最初に手がけた山内局長のドキュメンタリー作品にあるのかもしれない。

<山内局長の遺志を継いで議連の代表を引き受ける>
 農林水産省でも私が2度も深く付き合った5年上の先輩が現職中に自死をしている。43年組の次官は間違いなしと言われていた、通常その手の人は私の趣味に合う人ではないことが多いが、彼は例外だった。それだけに悲しく、切なくて涙が溢れて止まらなかった。山内局長も、出世コースを突っ走っているにもかかわらず、嫌味がなく本当に温厚篤実で立派な役人というのは共通していた。
 彼の存在があったからこそ、私は前任の阿部知子からの要請で「水俣病被害者とともに歩む会」の会長を引き受けていた。選挙区とは何の縁もないにやってやろうという気になったのは、優しかった山内局長の無念を晴らしてやろうという思いがあったからだ。その後、被害者の方々に接し30年以上経った今は、何が何でも水俣病患者を救わなければという思いを強くしている。

<今は山内局長のような純真な官僚は出世できず>
 霞が関はいま火の車である。愚かなことに内閣に人事局とやらができ、各省の人事に睨みをきかせている。つまり官邸の意向にそわない官僚は首にし、茶坊主ばかりを取り立てるという状況にある。14回に及ぶ「政僚シリーズ」(篠原ブログ)で私が糾弾してきたことである。
 知らないうちに有機水銀に汚染された魚を食べ、体がおかしくなってしまったのだ。治療法もなく、ただ耐え忍ぶしかない。変な病気かと思っていたら、有機水銀が原因だった。山内局長は福祉の理想を実行すべく患者に寄り添いすぐにでも手を差し伸べたかったに違いない。
 山内局長は、プロテスタント系の私立西南学院中学で学んでいた。そのため聖書を愛読し、「牧師さん」と渾名をつけられていたという。こうした来歴からしても山内局長の心情は、今も手に取るようにわかる。

<社会福祉に全力をあげる心ある官僚>
 ところが、政治もそれを許さなかった。1990年12月5日、北川石松環境庁長官がなんと30年振りに、現地水俣を訪問したその日に自ら命を絶っている。大臣を現地に行かせるなというのが政府の方針であり、事務方も北川長官と患者との対話を阻止せんとしていた。そして担当局長の山内はそれを実行できず自死している。なんという冷酷な政治なのだろう。
 今、度重なる裁判の中、環境省の官僚が裁判に勝った、負けたなどと口走っている。平均年齢が75歳を超えた原告被害者のために全力を尽くすのが、環境官僚の責務である。相変わらずのナマクラ対応に天国の山内局長はお怒りに違いない。30年経って今だもって裁判係争中とは情けない限りである。

投稿者: 管理者

日時: 2024年6月18日 15:25