プロフィール

プロフィール

家 族

妻、1女2男

趣 味

山歩き、テニス、野球、卓球、読書

主な著書

・「TPPはいらない!~グローバリゼーションからジャパナイゼーションへ~」(日本評論社)
・「原発廃止で世代責任を果たす ~放射能汚染は害毒、原発輸出は恥~」(創森社)
・「花の都パリ『外交赤書』」(講談社+α)
・「EUの農業交渉力」(農文協)
・「農的循環社会への道」(創森社)
・「第1次産業の復活」(ダイヤモンド社)
・「農的小日本主義の勧め」(復刊 創森社)
・「霞ヶ関いなかっぺ官僚 アメリカは田舎の留学記」(柏書房)
…他複数

著作物

  • 「農的循環社会への道」
    (創森社 2000年)
  • 「農的小日本主義の勧め」
    (柏書房 1985年)
  • 「第1次産業の復活」
    (ダイヤモンド社 1995年)
  • 「EUの農業交渉力」(農文協 2000年)
  • 「霞ヶ関いなかっぺ官僚 アメリカは田舎の留学記」(柏書房 1983年)
  • 「海洋法と漁業」
    (新水産新聞社、監訳 1996年)
  • (復刊)「農的小日本主義の勧め」
    (創森社 1995年)
  • 「農業・農政提言集 日本農業100の意見100の主張」
  • 「食と農を問い直す」
    (農林統計協会、日本型農業構築研究会、共著 1984年)
  • 「西暦2000年の日本農業」
    (日本経済評論社、日本型農業構築研究会の対談、共著 1983年)
  • 「食糧超大国」
    (家の光協会、共監訳 1982年)
  • 「食糧超大国の崩壊」
    (家の光協会、共監訳 1982年)
  • 「飽食のかげの星条旗」
    (家の光協会、共著1982年)(「21世紀は日本型農業で―長続きしないアメリカ型農業」を収録)
  • 「循環型社会を創る」
    (藤原書店、エントロピー学会編)
  • 「用水と営農」
    (日本イリゲーションクラブ 1981年)(「21世紀は日本型農業で―長続きしないアメリカ型農業」を収録)

…他複数

略歴

194807
長野県中野市に生まれる
196103
中野市立長丘小学校卒業
196403
中野市立中野平中学校卒業
196703
長野県立長野高等学校卒業
197303
京都大学法学部卒業
197304
農林省入省、農林経済局統計情報部管理課・企画情報課
197412
水産庁企画課
197607
アメリカ・ワシントン大学海洋総合研究所(法学修士)及びカンサス州立大学農業経済学部留学
197807
農林水産省農蚕園芸局総務課
197808
生活改善課
197907
農産課
198012
内閣総合安全保障関係閣僚会議担当室(内閣・総理府)に出向
198210
農林水産省大臣官房企画室企画官
198307
農業総合研究所併任(~84年4月)
198409
9月臨時教育審議会事務局調査員を併任)
198509
食品流通局企業振興課課長補佐
198609
食品流通局総務課課長補佐
198804
水産庁水産流通課水産貿易調整官
198906
同 経済局国際部対外政策調整室長
199106
経済協力開発機構(OECD)日本政府代表部参事官(パリ)
199406
農林水産省水産庁企画課長(94年11月 海洋法対策室長兼務)
199701
同 経済局統計情報部管理課長
199808
農林水産技術会議事務局研究総務官
199908
農業総合研究所研究調整官
200006
同 農林水産政策研究所長(01年4月名称変更)
200311
第43回衆議院議員総選挙当選 衆議院議員一期目 初当選
200311
農林水産委員会:党農林水産団体局長
200509
第44回衆議院議員総選挙当選 衆議院議員二期目
200509
外務委員会、環境委員会:党国際局副局長
200609
民主党ネクスト農林水産大臣 
200609
農林水産委員筆頭理事
200709
外務委員会:党政調副会長
200811
外務委員会、政治倫理の確立及び選挙制度に関する特別委員会 筆頭理事
200908
第45回衆議院議員総選挙当選 衆議院議員三期目
200909
衆議院財務金融委員会筆頭理事、懲罰委員会
201006
農林水産副大臣(菅直人内閣)
201109
民主党副幹事長、環境委員会理事
201209
民主党総括副幹事長
201212
第46回衆議院議員総選挙当選 衆議院議員四期目
201212
民主党NC環境・原発事故担当大臣
201212
環境委員会理事、安全保障委員会 、憲法調査会、消費者問題特委、原子力問題調査特別委員会
201310
民主党副幹事長、党常任幹事
201310
倫理選挙特別委員会筆頭理事、予算委員会
201409
民主党NC農林水産大臣
201409
農林水産委員会筆頭理事、地方創生特別委員会、倫理選挙特別委員会
201412
第47回衆議院議員総選挙当選 衆議院議員五期目
201501
経済産業委員会、環境委員会
201601
経済産業委員会、倫理選挙特別委員会
201710
第48回衆議院議員総選挙当選 衆議院議員六期目
201711
民進党 選挙対策委員長就任
201805
衆議院 懲罰委員会委員長就任
201910
衆議院 情報監視審査会委員就任
201910
環境委員会、倫理選挙特別委員会 筆頭
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職歴

私の役人生活は、政策の企画立案部門(内閣、企画室、研究所等)が10余年、 国際関係(アメリカ留学、OECD代表部等)10年弱、水産関係(2度の企画課等)8年と、 3つの部門に集約されます。

農林水産省入省(統計情報部管理課、水産庁企画課)

私は、30年前、大学卒業後、故郷の多くの人たちが係わる農業に関係する農林水産省に入省いたしました。故郷との絆を断ち切りたくなかったからです。

アメリカ留学

思いがけず、2年間のアメリカ留学の機会を与えられ、ワシントン大学海洋総合研究所で海洋法を、そして、カンサス州立大学で農業経済学を学びました。(後に、この間のことを「霞ヶ関田舎っぺ官僚 アメリカは田舎の留学記」として1冊の本にまとめました。)

農蚕園芸局

帰国後、農蚕園芸局では、農業改良資金制度の改正、転作等の仕事に携わりました。

内閣総合安全保障閣僚会議担当室

その後、鈴木善幸内閣の総合安全保障閣僚会議担当室に出向いたしました。そこでは、食料安全保障を中心に我が国の安全保障について他省庁の中堅・若手とともに取り組みました。ひょんなきっかけから『21世紀は日本型農業で』という小論を書き、その一部がエコノミスト誌に掲載されたことから、その後、執筆や講演を依頼されるようになりました。

大臣官房企画室

大臣官房企画室で、3年間、農政の企画立案に携わり、当時の財界の農政批判に対する反論するという疲れる仕事もしました。
(日本の進むべき姿を『農的小日本主義の勧め」に集約し、そこそこの反響を呼びました。)

食品流通局

食品流通局では、企業振興課において技術室を立ち上げ、総務課では、「12品目ガットパネル」も担当し、その後、続けて国際関係に携わることになりました。

水産庁水産貿易調整官・国際部対外政策室長

国際部対外政策室長時代は、OECD関係閣僚理事会、サミット、ウルグアイ・ラウンド、APEC(アジア太平洋経済協力会議)等を担当し、海外出張に明け暮れました。

OECD代表部参事官

先進国のいろいろな問題を議論するOECDにおいて、農業委員会、貿易委員会等を担当し、3年間英語の議論ばかりしていました。家族とともに過ごしたパリはいい思い出になっています。

水産庁企画課長

海洋法対策室長として、海洋法条約の批准、200海里排他的経済水域の設定、TAC法(魚の獲り過ぎを抑える法律)の制定等を陣頭指揮し、我が国の水産資源管理制度を大きく改革しました。(農林水産業にがんばってもらう目的で『第1次産業の復活』を出版しました。)

統計情報部管理課長

入省した最初の年以来2度目の管理課で、組織機構や人事改革を行いました。

農林水産技術会議研究総務官、農林水産政策研究所長

農林水産省の研究機関の独立行政法人化を担当するとともに、唯一国の研究機関として存続できる農業総合研究所の改革に着手、そのまま研究所に異動し、政策研究所への改組、霞ヶ関分室の開設、客員研究員制度の導入等の改革を行いました。
(パリ勤務時代から資料収集して論文にまとめ、京都大学農学部より農学博士号を取得し、「EUの農業交渉力」として出版しました。また、地産地消・旬産旬消を勧め、「農的循環社会への道」をまとめました。)

しのはら孝 物語

幼少期

中庭にてこの世代は皆長島・王のファンの野球少年。(本人右)
中野市田麦の3人兄弟の長男として生まれ、祖父には私の誕生日だけ鶏をしめた料理でお祝いされるなど、農家の跡取りとして、かわいがられて育った。(しかし、跡を取ったのは三男)
小、中学の頃は、帰宅後手甲と地下足袋に着替えて農作業に向かうのが日課。田植えも稲刈りも大人並み。りんごの摘果・袋掛けも青森から手伝いのお姉さん方と互角。近所のおばあちゃんが、『こんなに稼ぐ子は、必ず跡を取るように、高校へやらない方がいい』と親切なお節介。

農林水産省時代

京大法学部卒業後、祖父の期待通り農業の跡継ぎを考えるも「そんな奴に敷居はまたがせない」と母に拒否され、身近な人達に役立つ農林省へ。
内閣総合安保担当室に出向(食料安保を担当)。この時の論文「21世紀は日本型農業で-長続きしないアメリカ型農業」の一部が、週刊エコノミストに掲載され、その後原稿・講演の依頼が相次ぎ忙殺される。
大臣官房企画室企画官として、農政の企画立案に3年間関わる。有機農業や家族農業を大事にし、環境保全型農業、地産地消・旬産旬消といった用語を考案し使い始める。

衆議院議員時代

03年11月(国会議事堂正面)
羽田孜元総理から8年間にわたり長野1区から出馬してほしいと言われ続けていたが、お断りし続けてきた。「農政をやる若手がいない」、「君が本に書いている理想とする社会の実現に何十倍ものパワーで取り組める」と説得され、出馬を決意。地元や同級生の熱い応援もあり善戦し比例復活当選。
初登院の時は、私よりも羽田元総理のほうがお喜びだった。政界入りを嫌った妻も同行した。

08年6月(長野市川中島リンゴ畑)
篠原立案の農業者戸別所得補償を引っ下げ全国を飛び回る小沢代表がリンゴ園視察。畑にミカン。
箱の上での演説に拘り続けた。

10年6月(宮崎県庁)農林水産副大臣を拝命するも、翌日から宮崎口蹄疫対策本部長として現場で指揮。東国原知事の知事室のすぐ上に部屋を構えて連携しながら鎮静化に全力を注ぐ。2ヶ月で終息させることができたが、感染症対策の難しさを肌身で感じた。コロナ対策は「検査と隔離」が必要だというのはこの経験によるものだ。

11年4月(宮城県石巻市魚市場)
自衛隊のヘリで菅総理と津波彼災地に向った。高台から見渡すと、人々の生活が奪い去られ、ただ荒地が広がる惨状に涙した。

11年4月(チェルノブイリ)
震災は津波と原発事故の大惨事であった。ウクライナを訪ね、事故対応の知見を日本に頂きたいと懇願し、大量の情報を得た。

16年11月(TPP特別委、第一委員会室)野党筆頭理事として与野党の調整をしつつ自らも質問。
紛細した時は委員長に詰め寄るという攻防も繰り広げる。

19年10月(長野市長沼)19号台風でまさかの堤防決壊。
復興の補正予算獲得に奔走し、満額に近いので反対の党議拘束に反して賛成も辞さじで本会議に臨むも・・・。