立憲民主党 衆議院議員しのはら 孝

今、政治に必要なのは
どっしりと構えた
落ち着いた野党である

今の政治を見るとき、どこかに危うさを感じ、「このままでいいのだろうか?」と思っておられる方は多いだろう。
私自身決して若いとは言えないが、自公政権に対峙できる立憲民主党、そして、政権を担える立憲民主党へと立て直すことは私の責任であると覚悟をもって臨む所存だ。

5つの政策

01農林水産

農業が危機的状況であると何度も警鐘を鳴らしてきました。食料自給率は年々減少を続け38%となり、農業者従事者もこの20年で3割減少、75歳以上が現役の3割と将来像が描ける状況にはありません。
昨今は原材料費の高騰で更に収入が低下しています。そして次に、政府も国民も工業ばかりを重視し、農業を軽視してきたことです。農業は国の礎です。

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02環境

高度経済成長真っ只中の1985年に私が「農的小日本主義の勧め」という本を書いて、「環境に優しい循環型社会」を提唱した時、周りからはそれは冷ややかな目で見られました。30年以上たった今、世界の政治課題の中心はまさに環境問題です。日本は今こそ大国主義から「環境に優しい生き方」に舵を切っていかなくてはなりません。

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03エネルギー

原発は廃止し、原発汚染のツケを後世に回さないことは、今を生きる我々の世代責任です。地震大国日本で原発は安全と言い切れるはずがありません。「地産地消・旬産旬消」は私が作った造語で、その土地で取れたものをその土地で消費するということです。その土地で無理のない形で作られた再生可能エネルギーでその土地のエネルギーを賄えるようにするべきであり、安全で持続的なエネルギー体制の構築は急務です。

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04外交安保

メディアは毎日のように「ウクライナへの軍事侵攻」「台湾有事」と煽りたて、世論も防衛力の強化はやむを得ないと傾いています。しかし、一度頭を冷やしてもらいたと思います。先の大戦から我々は何を学んだのでしょうか。
専守防衛に立ち返り、アメリカと中国の衝突を避けるよう努力をするのが先進国、平和国家たる日本の役割だと思います。

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05地方自治

活力ある地方、美しい農村・里山を取り戻すには、「第一次産業の復活」しかないと確信しています。限界集落という言葉はすっかり定着してしまいましたが、かつて地方で多くの人が暮らしていけたのは、第一次産業で十分糧を得れていたからです。
地方に人がいない日本に未来はありません。向村離都へ社会を向かわせ、美しい日本を次の100年へ引き継いでいくのは政治の責任です。

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プロフィール

しのはら孝 物語

幼少期

中庭にてこの世代は皆長島・王のファンの野球少年。(本人右)
中野市田麦の3人兄弟の長男として生まれ、祖父には私の誕生日だけ鶏をしめた料理でお祝いされるなど、農家の跡取りとして、かわいがられて育った。(しかし、跡を取ったのは三男)
小、中学の頃は、帰宅後手甲と地下足袋に着替えて農作業に向かうのが日課。田植えも稲刈りも大人並み。りんごの摘果・袋掛けも青森から手伝いのお姉さん方と互角。近所のおばあちゃんが、『こんなに稼ぐ子は、必ず跡を取るように、高校へやらない方がいい』と親切なお節介。

農林水産省時代

京大法学部卒業後、祖父の期待通り農業の跡継ぎを考えるも「そんな奴に敷居はまたがせない」と母に拒否され、身近な人達に役立つ農林省へ。
内閣総合安保担当室に出向(食料安保を担当)。この時の論文「21世紀は日本型農業で-長続きしないアメリカ型農業」の一部が、週刊エコノミストに掲載され、その後原稿・講演の依頼が相次ぎ忙殺される。
大臣官房企画室企画官として、農政の企画立案に3年間関わる。有機農業や家族農業を大事にし、環境保全型農業、地産地消・旬産旬消といった用語を考案し使い始める。

衆議院議員時代

03年11月(国会議事堂正面)
羽田孜元総理から8年間にわたり長野1区から出馬してほしいと言われ続けていたが、お断りし続けてきた。「農政をやる若手がいない」、「君が本に書いている理想とする社会の実現に何十倍ものパワーで取り組める」と説得され、出馬を決意。地元や同級生の熱い応援もあり善戦し比例復活当選。
初登院の時は、私よりも羽田元総理のほうがお喜びだった。政界入りを嫌った妻も同行した。

08年6月(長野市川中島リンゴ畑)
篠原立案の農業者戸別所得補償を引っ下げ全国を飛び回る小沢代表がリンゴ園視察。畑にミカン。
箱の上での演説に拘り続けた。

10年6月(宮崎県庁)農林水産副大臣を拝命するも、翌日から宮崎口蹄疫対策本部長として現場で指揮。東国原知事の知事室のすぐ上に部屋を構えて連携しながら鎮静化に全力を注ぐ。2ヶ月で終息させることができたが、感染症対策の難しさを肌身で感じた。コロナ対策は「検査と隔離」が必要だというのはこの経験によるものだ。

11年4月(宮城県石巻市魚市場)
自衛隊のヘリで菅総理と津波彼災地に向った。高台から見渡すと、人々の生活が奪い去られ、ただ荒地が広がる惨状に涙した。

11年4月(チェルノブイリ)
震災は津波と原発事故の大惨事であった。ウクライナを訪ね、事故対応の知見を日本に頂きたいと懇願し、大量の情報を得た。

16年11月(TPP特別委、第一委員会室)野党筆頭理事として与野党の調整をしつつ自らも質問。
紛細した時は委員長に詰め寄るという攻防も繰り広げる。

19年10月(長野市長沼)19号台風でまさかの堤防決壊。
復興の補正予算獲得に奔走し、満額に近いので反対の党議拘束に反して賛成も辞さじで本会議に臨むも・・・。